1987(昭和62)年11月末のある日、通学の時に通り掛かる京都駅で一日を過ごした。
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昨年、阪神タイガースが38年ぶりに日本一になった。その38年前は1985(昭和60)年で、当時はバース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発で有名だが、リアルタイムでそのシーンを見ている自分は、それだけトシをとったという証でもある。
翌1986(昭和61)年は3位に終わったものの、巻き返しが期待された1987(昭和62)年は、まさかの最下位に終わり、この撮影時にはオフシーズンを迎えて騒がしかった時期でもあった。阪神タイガースの私設応援団「○○猛虎会」に一応名前を連ねていた自分も、最下位にがっくりし、村山新監督の就任が決まって来年はどうなるのだろうかと思っていたものだった。
485系の特急「雷鳥」は、当時は見飽きるほど走っていたが、先頭車はボンネット型であることが多く、貫通型のクハ485-200番台や非貫通の300番台、北海道帰りの1500番台などが来ると喜んでシャッターを切っていたものだった。
既に国鉄はJRに変わっていたが、まだ特急車両の多くに国鉄を示す「JNR」マークが残っていたし、駅名標も国鉄時代のままだった。
珍しく2番線にキハ28・58系の団体臨時列車が入線していた。2両編成だったが、パノラミックウィンドー仕様なので最終型ではある。
奈良線からやって来た列車や、東海道線の山科方面からやって来た列車が、山陰線に乗り入れる場合などは、構内配線の関係で「下り」列車にも関わらず、本来は「上り」用の列車が発着する京都駅2番ホームに入線していた。
新快速は、当時はまだ117系の独壇場だった。しかし、117系がデビューして10年近くを経た1989(平成元)年に221系が登場し、次第に活躍の場を奪われていった。
だが、221系は3扉で、快速や普通にもけっこう使われたので「新快速」専用車とは言いづらく、次第に「新快速には専用車」の概念が消えていくことになる。
秋の夕暮れは早い。広い1番ホームの中ほどまで、秋特有の柔らかい太陽の光が差し込み始めていた。
主に北陸方面への特急・急行列車が発着していた京都駅1番ホームにはキオスクといった売店の他に、駅弁+お茶を売っている店や屋台も出ていて、にぎやかだった。
そんな京都駅1番ホームも、夕方になると草津線直通の客車普通列車が何本も発着していた。
蒸気暖房の白い湯気が立ち上り、雰囲気は「旅に出る」感があるが、れっきとした通勤列車ではある。
機回しで、亀山機関区所属のDD51-1036号機が姿を見せた。同機は、その後、大阪の宮原運転所に転属になり、2002(平成14)年8月に廃車となったようだ。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。