1978年11月23日(木・祝) 東海道線・神足-山崎 その4

1978(昭和53)年11月23日の祝日(勤労感謝の日)、友人2人と始発の市バスに乗って京都駅へ向かい、東海道線の山崎-神足間へ撮影に出掛けた。

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この当時、関西と九州を結ぶ夜行列車は、寝台特急のブルートレインだけではなく、583系の寝台電車、さらには客車や電車の急行列車や、臨時で座席オンリーの特急も運転されており、本数もさることながら、使われている機関車や車両がバラエティに富んでいた。
 583系も夜行の寝台特急としては「明星」「彗星」「なは」で、昼間に走る座席車としては「雷鳥」で見ることができた。

そういう意味では、この頃が最も583系らしい活躍を見せていたと言えるだろう。

大阪地区を発着する夜行列車では、「明星」「彗星」「あかつき」に「銀河」といった星や天体に関わるものが多い中で、沖縄県の地名が付けられた「なは」は、列車が沖縄に行く訳でもないので異例の存在ではあった。
 沖縄の本土復帰を願って付けられたようだが、この時点ではとっくにそれは達成されていたので、当時でも違和感を覚えた。しかし、意外なことに関西と九州を結ぶ夜行列車の最後まで使われ続ける愛称名となった。


この年の10月にあった「ゴオ・サン・トオ(=昭和53年10月の意味)」のダイヤ改正で、それまで季節運行だったものが定期列車に格上げされて、大阪と青森を結ぶ寝台特急「日本海」は2往復の運行となった。が、使われている車両は、新たに定期運行に昇格した方が真新しい2段式寝台の24系25形だったものの全車両がB寝台だった。一方で、元から定期運行されていた方は3段式寝台の14系から同じ3段式寝台の24系24形に変わったが、こちらにはA寝台車が連結されていた。

長野方面と名古屋を結ぶ特急「しなの」は、1往復のみが大阪まで乗り入れていたが、既に気動車のキハ181系から381系の「振り子電車」に変わっていた。


まだ2軸貨車を連ねた一般貨物列車が数多く運行されていたので、今に比べても貨物列車の本数はかなり多かったし、その先頭に立つ機関車もバラエティに富んでいた。

急行荷物列車は、主にEF58だったが、少数勢力のEF61も混じって活躍していた。


まだ急行列車の多かった当時、関西と北陸を結ぶ急行「立山」「ゆのくに」で475系の姿を見ることができたが、これらにはヘッドマークが付いていた。しかし、「ゴオ・サン・トオ」のダイヤ改正で、なぜかヘッドマークが貫通路内に収まる大きさに小型化されてしまっていた。

キハ28・58系の急行も多かった。全線が電化区間である急行「ゆのくに」も、臨時列車ではキハ28・58系で運行されているものがあった。

青森と大阪を夜行ではなく昼間に14時間かけて走る特急「白鳥」も健在だったが、ダイヤ改正で絵入りマークに変わっていた。
 この「白鳥」、キハ82系の気動車で運行されていた時代には、一部区間が不通になった時など、それぞれたった1日ではあるが、京都から山陰線~小浜線経由で迂回運行されたり、米原から岐阜を経て高山線経由で迂回運行されたこともあった。運休を選ばず、意地でも大阪と青森を結んで走らそうという、その気概は、当時の国鉄マンでしかなし得なかっただろう。
 それにしても、12~14両編成のキハ82系が小浜線や高山線を走っていた姿は、想像するだけでも凄い話ではある。

そうやって、国鉄の時代は、何が何でも列車を運行させる、という感じがあって、大雪でも台風でも、そう簡単に運休することはなかったのだった。もはや、古い昭和世代で50代より上の人しか、それを覚えていないだろうが…。

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京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。