鉄道写真を撮り始めて以降、撮影する時間帯は朝の始発電車からお昼頃までだった。
主に関西で発着する夜行列車を撮影する機会は多かったが、東京と九州を結ぶ寝台特急(ブルートレイン)は、関西地区を夜中に通過するので、小学生の自分たちは、なかなか撮影する機会がなかった。
どうしても撮りたかった東京発着のブルートレインを撮影すべく、夏休みに入って間もなく、母親に付いてきてもらって夜の京都駅を訪れたのだった。
(1978年7月21日(金) 夜の京都駅・その1はこちら←太字をクリックすると記事に飛びます)
午後11時台に、東京から九州方面へ向かう下りの寝台特急が立て続けに姿を見せた後は、京都駅の7番ホームと8番ホームの間にある通過線を通る下りと、1番ホームと2番ホームの間にある通過線を通る東京行きの上りが入り乱れての時間帯を迎える。
ただ、京都から山陰線に向かう「出雲」と「いなば」だけは違っていて、上りの東京行きはどちらも1番ホーム、下りの浜田行き「出雲」と米子行き「いなば」は2番ホームで、それぞれEF65-500番台・EF58とDD51との機関車の付け替え(交換)作業があった。
京都駅1番ホームの東端にある留置線には、上り「出雲」用のEF65-507号機が待機していた。
出番を待つ間、機関士の方が下りてきて「ぼん、いくつや?」と年齢を尋ねられたのを覚えている。小学生が夜中に撮影に来ていることを不思議に思ったのだろうが、親が付いて来てくれていると言うと、その機関士の方は、ちょっと驚いた表情を見せていた。
機関士の方が再び乗り込み、静かに機関車が発車していくと、気が付いた時には、1番ホームにDD51けん引の上り「出雲」が入線してきていた。
当時は、客車=ブルートレインの方に興味があり、ヘッドマークの付いてなかったDD51にはカメラを向けていなかったようだ。
DD51が離れていくと、オハネフ25-100番台の特徴ある切妻型の顔が姿を現した。
当時使っていたのは45ミリのレンズが付いたカメラだったので、京都駅1番ホームでは先頭の機関車がホームの先端ぎりぎりに位置していたこともあり、ヘッドマークが付いた機関車の先頭部の写真をうまく撮ることが出来なかった。
しばらくして、上りの「みずほ」がやって来た。子ども心に、動いている機関車に向けてフラッシュを光らせるのはダメだと思い、この時もヘッドマークの付いた先頭部の写真を撮影することが出来なかった。
オハネフ14に表示された「みずほ」の字入りマークを見送った頃には、まだ小学生だった自分は、早くも眠気に襲われていた。
それも仕方ない。子どもの頃から早起きだった自分は、遅くとも午後9時過ぎまでには床に就いていたのだから。
「まだ『あさかぜ』とか『富士』が来てへんし、もっと撮りたい」と言っていた友人たちを説得し、母親ともどもタクシーに乗り込んで帰宅したのだった。
既に市電の最終電車は発車したあとだったので、タクシーに乗ったのだが、そのとき初めて「深夜割り増し料金」というものがあることを知った。
ちなみに帰る頃には日付が変わっていて、最終電車も出発した後だったが、前夜に購入した入場券で、そのまま出場することができた。切符の規則的には、もう一度買い直す必要があると思われるのだが、おおらかだった当時、改札口にいた国鉄の職員さんに何も言われることはなく、逆に「おつかれさん」と言われたような記憶がある。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。