京都市電の廃止が間近に迫った1978(昭和53)年9月の中旬、当時の同級生たちと東海道線の神足-山崎駅間へ撮影に行くことになった。
その日、ちょうど部分月食の真っ最中だった午前4時に友人宅に集合し、みんなでタクシーに乗り込んで京都駅に向かった。京都駅からは東海道線下りの始発電車に乗り込み、山崎駅に降り立った。
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この日は、9月30日限りで廃止が決まっていた寝台特急「安芸」(新大阪-下関)を撮影したいがために、始発の市電よりも早い時間にタクシーに乗って京都駅に向かったのだった。
153系の急行「鷲羽」の回送電車がやって来たが、前寄りは非冷房車、後ろ寄りは冷房車の編成だった。
その後、向こう側を走る下り貨物列車を撮影していたら、急に手前の線路を上りのブルートレインが横切った。それが「安芸」だった。
余りにも慌てていたので、電柱と信号機器の間に最新のカニ24-100番台と「安芸」の表示が見えた一瞬にシャッターを切ることしかできなかった。いや、当時、小学生の自分に、その一瞬に(連写もできない)カメラのシャッターを切ることが出来ていたのは、今から考えると奇跡的なことかもしれない。
関西地区のブルートレインは、多くがEF58けん引だったが、残念なことに当時は既にヘッドマークが姿を消していた。長年にわたる国鉄の赤字が問題化し、合理化の名の下でヘッドマークが次々と姿を消していた時代ではあった。
晩年はローカル線で短編成の姿がよく見られたキハ28・58系も、この当時は12両編成といった長いものがよく見られた。エンジンがいっぱい稼働しているので、騒音も大きかったし、排気ガスも多かったように思う。
新快速用の153系ブルーライナーも、ラッシュタイムは横線3本の表示で快速運用に入っていた。
新快速用の153系には、初期型である低窓のクハ153も多かった。
関西地区の東海道・山陽線で使われていたスカイブルーの103系は、この当時は多くの場合で行先表示幕に「行き先」ではなく「列車種別」を表示していた。
EF66も、当時は貨物列車でしか見ることが出来なかった。そのため、雑誌の企画とかで、寝台特急のヘッドマークを掲げて「夢のブルートレインけん引」という感じで写真撮影まで行われていたのを記憶しているが、それが実現してしまうことになろうとは、当時は思いもよらなかった。
このEF66-41号機も、その後、東京を発着するブルートレインの先頭に立つことになった。新製配置の下関運転所に所属し続け、国鉄民営化後のJRになってからも活躍を続けていたが、肝心のブルートレイン廃止で、その場を失ってしまった。運良くJR貨物に移籍して再び貨物列車をけん引して活躍した後、廃車となっている。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。