1986年10月9日(木) 国鉄山陰線・香住駅&餘部鉄橋 その2

1980年代の半ば、元号で言えば昭和60年前後の頃、国鉄の路線から旧型客車が急速に姿を消していた。
 様々な旧型客車が走っていた山陰線も例外ではなく、1986年の秋をもって姿を消すことが発表されていた。

1986(昭和61)年10月の週末、鳥取・浜村ミニ周遊券を手に、大阪から夜行急行「だいせん」に揺られて山陰線の但馬方面へ向かった。山陰線の福知山~出雲市の辺りで、最後まで旧型客車が運用されていたのだった。
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鳥取駅で折り返しの客車列車に乗る。その先頭には、米子機関区に所属するDD51-779号機の姿があった。

10月に入り、朝夕はめっきりと冷え込むようになっていた。SL=蒸気機関車の時代の名取りでもあるSG=蒸気暖房装置が積まれたDD51からは、白い蒸気が吹き上げていた。

この当時、山陰線を走っていた旧型客車は、大半が体質改善車であり、窓はアルミサッシで、車内は蛍光灯というスタイルが多かった。

鳥取駅を出ると、次の福部駅との間にスイッチバックの滝山信号場があった。いや、今もあるらしいが、ほぼ使われていないようだ。
 当時は、まだその滝山信号場が現役ばりばりに使われており、普通列車に乗ると、時折、特急や急行に進路を譲るため、運転停車することがあった。

居組駅で、対向の旧型客車で編成された普通とすれ違う。
 この当時、既に貨物列車は通っていなかったように思うが、12両編成同士ぐらいは余裕ですれ違いが出来そうな長さの線路構成に、乗降するホームも3本あった。それが今では単線化され、ホームは1本だけになり、跨線橋も撤去され、すれ違いも出来なくなったらしい。行き交う列車も2両編成とかになっているらしいから、時代の変化を感じずにはおられない。

浜坂駅に到着した頃には、夜が明け始めていた。

旧型客車が最後の活躍を見せていた時期だったが、既に青い12系や赤い50系に置き換えられた客車列車もあった。
 青い12系は、白帯のある0番台と、一部をロングシート化するといった近郊化改造を受けて白帯が消された1000番台が入り混じって使われていたが、白帯の無い1000番台のスハフ12は、どこか間抜けな顔に見えた。

餘部鉄橋を通る列車は、当時でもそれほど多くなかったので、列車が来るまで退屈だった。
 今では、昼間に普通列車が2時間も来ない時間帯もあるらしい。

香住駅の近くの鉄橋で、キハ181系の特急「あさしお」を撮る。ポジショニングが悪く、思い切り距離標が被ってしまった。

旧型客車と言えば、旧型国電と同じく茶色い「ぶどう色」がイメージとしてあるのだが、末期の山陰地区は青い客車ばかりになっていた。

鉄道関連ニュース

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。