1978年9月17日(日) 東海道線・神足-山崎

京都市電の廃止が間近に迫った1978(昭和53)年9月の中旬、当時の同級生たちと東海道線の神足-山崎駅間へ撮影に行くことになった。
 午前4時に友人宅に集合し、タクシーで京都駅に向かった。始発の市電に乗るよりも早く京都駅に行きたかった理由は、かなり早い時刻に山崎を通過する寝台特急「安芸」の回送列車を撮りたいからだった。

その日、集合時間の頃は、ちょうど部分月食の真っ最中だった。月が欠けているのが見えたことを、はっきりと覚えている。

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始発電車は京都駅を午前5時過ぎに出発する。未明の道路はガラガラに空いていたから、かなり早めに京都駅に到着した。
 切符を買って駅に入ると、ちょうど上りの東京行き寝台特急「みずほ」が1番ホームに停車していたところだった。

当時、高感度のモノクロフィルムでは、フジがASA(ISO)感度400の「ネオパン400」を発売したところだったが、なぜか店頭では余り見かけなかった。近所の写真屋さんには、感度200の「ネオパンSSS」しか無かったので、それを初めて使用した。ちなみに、その後、「ネオパンSSS」はすぐに製造中止になったため、この時が最初で最後の使用機会となった。

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京都駅からの始発電車で山崎駅に降り立ったが、メンバーの全員が初めて行く場所だったこともあり、地理に詳しくなく、道に迷ってしまった。そして、肝心の撮影場所に行く途中で、寝台特急「安芸」の回送列車が来てしまった。下関発、新大阪行きの「安芸」は、9月30日限りで姿を消すことになっており、最初で最後の撮影機会だったので、とても悔しい思いをした。

何とか撮影が出来そうな踏切にて待っていると、153系の急行がやって来た。「鷲羽」か「比叡」の回送だと思われるが、今となってはよく分からない。

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続いて、東京機関区所属で、大きなスノープラウで人気だったEF58の124号機がけん引する寝台特急「彗星」の回送がやって来た。
 この頃、関西対九州の夜行列車は、かなりの本数が走っており、まさに次々とやって来た。

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しかし、どれもEF58がけん引するブルートレインか、583系電車ばかりだった。当時は(毎年ストを繰り返していた)国鉄の労使紛争の影響もあって、寝台特急をけん引する機関車にはヘッドマークが全く無かったため、先頭のEF58を見ただけでは、どの列車か分からなかった。
 東京発着の寝台特急には、この当時でもヘッドマークが付いていたため、関西のファンは悔しい思いをしていた。

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ここで、踏切の反対側に移動。
 内側の電車線を走る103系の下り普通と、外側の列車線を走るEH10けん引の貨物列車が並走してきた。今では朝のラッシュタイムに貨物列車を見かけることは殆ど無いが、当時はけっこう走っていた。
 ちなみに、このEH10は初期型(3号機)で、パンタグラフが内側に寄っているのが特徴でもあった。

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主に新快速で使われていた153系も、朝のラッシュタイムには快速や普通の運用に入っていた。この写真の153系は、方向幕に「安土」行きと出ているので、恐らくは快速だろう。

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天気も良くなり、ちょうどモノクロのネオパンSSSが撮り終わったので、ここでカラーフィルムに詰め替える。
 内側の電車線を湘南色の113系がやって来たが、方向幕には「湖西線」と出ていた。当時、湖西線の線内運用だけでなく、そのまま大阪方面へ乗り入れていた列車があったが、なぜか「湖西線」表示のまま乗り入れていたようだ。

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続いて、大阪発の飛騨高山方面行きの急行「たかやま」がやって来た。この列車は、その後、特急になって名称は「ワイドビューひだ」になったが、今も健在である。

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大阪発、青森行きの特急「白鳥」の回送列車が通過していく。向日町操車場から大阪駅に向かうもので、この後、大阪駅を出発して、14時間かけて日本海側を縦走し、その日の日付が変わる直前に青森に着くという、昼間に走る特急としては最長距離を走る列車だった。ちなみに青森からは青函連絡船に乗り継げて、翌朝に札幌まで辿り着くことが出来たが、この当時でも、そんな長距離を乗り継いでいる乗客は殆どいなかったようだ。

鉄道関連ニュース

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。