1988年9月17日(土) 青森~函館の旅

大学生だった1988(昭和63)年のこと、真夏の8月から初秋の9月にかけての約1か月半の間に北海道へ2回、山陰・中国方面へ2回、四国へ1回、それぞれ撮影旅行に出掛けた。
 それだけ何度も旅行ができたのは、この年の夏休み初めに3日間で45万円という破格の撮影アルバイトを2人で請け負い、それを原資にすることができたからだった。時はバブル景気の真っただ中ではあった。

1988年9月16日(金)~19日(月) さよなら青函連絡船・その1
 1988年9月16日(金)~19日(月) さよなら青函連絡船・その2

この年の春、世紀の大事業とも言われた青函トンネルと瀬戸大橋が開業した。このため、それぞれ青函連絡船と宇高連絡船という、2つの鉄道連絡船が廃止された。
 すぐに転用先が見つかり、譲渡されていった宇高連絡船と異なり、大型の船が多かった青函連絡船の方は、廃止後も係留されたままだった。折しもバブル景気の真っただ中にあった当時、日本各地で博覧会が行われており、青森と函館でも7月9日から9月18日にかけて「青函トンネル開通記念博覧会」が開かれることになった。また、6月3日から10月30日までは北海道全域で「世界・食の祭典博覧会」が開かれており、それにも合わせて、6月3日から9月18日までの日程で青函連絡船を「復活運航」させることになったのだった。

その運航最終日に連絡船に乗るために再び向かった北海道だったが、往路は青森行きの寝台特急「日本海」を利用して、青森からは津軽海峡線に乗り継いだ。

木古内駅で下車した。かつてはローカル線の江差線にある一つの駅、という感じだったが、青函トンネルの開通で特急や貨物列車が数多く通過するようになり、様相は一変していた。


青森と函館を結ぶ快速「海峡」が行き交う。ヘッドマークも誇らしげで、ブルートレインのようにも見えなくはない。

隣の札苅駅も訪問。普通列車は、まだ首都圏色のキハ22が頑張っていた。

次に五稜郭駅へ。

快速「海峡」用のED79が単機で姿を見せた。

函館駅に到着。この辺りではキハ40形の姿は少なく、老体のキハ22ばかりが活躍していた。


函館駅では、快速「海峡」が折り返すので、けん引するED79を前後に付け替える「機回し」作業が普段の光景として見られた。

構内の片隅には、「MOTOトレイン」用のマニ50の姿があった。
 本来は荷物輸送用として製造されたマニ50だったが、製造から10年も経たぬうちに荷物列車が廃止となり、用途を失ってしまっていた。それが、バイクで北海道へ走りに行く若者を対象に、夜行列車に乗車しながらバイクと一緒に移動ができる「MOTOトレイン」の運行が始まり、そのマニ50に白羽の矢が立ったのだった。

その「MOTOトレイン」は、上野と青森を結ぶ急行「八甲田」に併結される形で1986(昭和61)年に運行が始まったが、青函トンネルの開業で函館まで乗り入れるようになった。その際、急行「八甲田」は臨時快速列車となって、そのまま青森から函館まで乗り入れていた。

急行「八甲田」そのものは14系座席車での運行だったが、「MOTOトレイン」の利用者向けに3段寝台のオハネ14がマニ50×2両とセットで併結されていた。

鉄道関連ニュース

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。