1988(昭和63)年の春は、瀬戸大橋が開業した。それに伴い、JRの線路も備讃線→瀬戸大橋線として本州と四国が結ばれることになった。
瀬戸大橋の開業は4月10日だったが、JR瀬戸大橋線は3月20日に茶屋町-児島間が暫定開業していた。そんな短い暫定開業時に、ちょうど母方の実家がある児島(岡山県倉敷市)を訪れたのだった。
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これまで非電化路線しかなく、ディーゼル車の王国だった四国の国鉄→JRにも、電化の波が押し寄せていた。
高松駅には、まだ新しい121系電車の姿があった。その隣には、塗色がJR四国のコーポレートカラーに変更されたキハ181系の姿もあった。
とはいえ、電車よりは気動車の方が多く見られた。キハ28・58系やキハ65系も国鉄時代と変わりなく健在だった。
高松駅の構内では、瀬戸大橋線の開業に合わせてデビューする211+213系「スーパーサルーンゆめじ」が展示されていた。
車内にも入ることができた。3両編成の全車がグリーン車で、景色が良く見えるようにハイデッカー構造になっていた。
窓もかなり大きく、座席を窓に向けることもでき、その様子は、かつて東海道線を行き交っていた151系特急の「パーラーカー」みたいに見えた。
間もなく姿を消す方の宇高連絡船は、別れを惜しむ人たちが乗り込んでいるせいか、いつもより盛況に見えた。
連絡船が出発するときには、なぜか定番(?)の紙テープが投げ込まれていた。
乗り込んだ伊予丸には、別れを惜しむ人たちのために、記念撮影用のスペースが設けられていた。
瀬戸内海には、うっすらと「もや」が掛かっていて、すれ違う連絡船がかすんで見えた。
宇野港の岸壁には、別れを惜しむ岡山県玉野市のメッセージが掲げられていた。
前にも書いたが、3歳の頃、両親や祖父母に連れられて岡山県倉敷市に帰郷し、その後、どういう経緯か分からないが、宇野駅から準急「鷲羽」に乗って帰るとき、窓から連絡船が見えた光景をかすかに記憶している。
窓越しに駅弁屋さんから駅弁とお茶などを買った時、その背後に船が見えていたのだった。そんな、かすかな記憶も、もう半世紀以上も昔の光景になった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。