1987年3月4日(水) 東海道線・大森駅付近 その2

国鉄が民営化されてJRになるまで1カ月を切った1987(昭和62)年の3月初め、既に春休みに入っていた自分は、東京から東北方面を旅行する計画を立てていた。

まずは3月3日の夜、京都駅から寝台急行「銀河」に乗って、一路、東京へ向かった。(1987年3月4日 東海道線・大森駅付近 その1のレポートはこちら←太字をクリックすると記事に飛びます)

東京駅で折り返し、朝のラッシュタイムが始まる前の京浜東北線に乗って、東海道線の大森駅へ向かった。
 関西人の自分には聞き慣れない「共通語」とも言う東京の言葉が行き交う車中で、同行した友人たちと関西弁で話していると、近くにいた人たちが少しずつ遠ざかっているのを感じた。この当時、東京の方で、関西弁を話す人は「怖い」というイメージがもたれていたのを実感したことは一度や二度ではなかった。

ブルートレインの撮影地として知られていた大森駅近くのポイントだったが、当然、初めて行く場所なので戸惑った。今のようにネットからの情報もなく、雑誌で見たアングルから想像して「恐らくこの辺だろう」と推測して歩いた。

関西人の自分には、見慣れた湘南色の113系は、既に殆ど見かけなくなっており、「見慣れない」211系ばかりが行き交っていた。
 しかし、グリーン車を2両組み込んだ長~い15両編成は、関西で見られないもので、迫力を感じた。

特急用である筈の185系も、間合い運用で普通列車としても使われていた。こちらも15両編成の堂々たる姿だった。


寝台特急(ブルートレイン)も、この当時は長い15両編成ぐらいが当たり前で、今から思うと全盛期のような出で立ちだった。

先ほどの185系の普通が折り返してきたのか、今度は特急「踊り子」となって、伊豆方面へ向けて走り去って行った。

通勤ラッシュが終わろうとする時間帯になると、回送電車が何本か通過していった。

寝台特急「みずほ」は14系客車で編成されていたが、この当時は14系でも24系でも、白帯・銀帯で編成がそれぞれ統一されており、見た目にも美しかった。
 晩年のブルートレインが、白帯と銀帯に金帯まで入り乱れていたのとは対照的である。

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京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

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