1979年9月24日(月・振替休日) 国鉄北陸線・新疋田-敦賀間 その2

1979(昭和54)年の9月末、23日「秋分の日」の振替休日である24日(月)に北陸線の新疋田-敦賀間へ撮影に出掛けた。(その1はこちら←太字をクリックすると記事に飛びます)

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583系の上り特急「雷鳥」が新疋田駅近くのカーブに姿を見せた。当時は食堂車組み込みの12両編成で、これぞ「国鉄特急」という姿ではあった。

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同じ撮影ポイントでも、下り線はそれほど良いアングルではなかった。写真としては、いまいちだが、今となっては貴重な内容になってしまっているから、年月の重みというのを感じてしまう。

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485系の特急「加越」は、当時の国鉄の中では、最も短い編成の特急列車として知られていた。その長さは7両編成で、これでは特急とは名ばかりで、見すぼらしいとまで当時は感じたものだった。
 しかし、その後、全国各地で特急が増発されていく一方で短編成化が進んでいった。ついには2両編成の特急も登場するに至ったが、当時は、まさか近い将来に、そんなことになろうとは予想もしていなかった。

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帰りに新疋田駅近くで特急「加越」が通過していったが、真っ正面からのアングルだと短編成とは分からなかった。

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敦賀駅に移動すると、特急「しらさぎ」に貫通型のクハ485-200の姿が見えた。しかし、よく見ると中央部が溶接されていて、貫通扉が開かない状態になっていた。
 当時、耳にした話では、貫通型のクハ485-200は、その中央部から「すきま風」や「雨漏り」がよくあったといい、その対策で使わない貫通路を溶接してしまっていたらしい。同様の事例は、583系のクハネ581でも見られた。

しかし、その後、余剰となった485系が紀勢線に転出した際、4両編成どうしを連結した8両編成で運用する際、この貫通路を使うことになった。結果的には、製造後、かなりの年数が経ってから活用する機会が生じたことになるが、とはいっても対象はごく一部の車両になったのも事実ではある。

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485系の下り特急「雷鳥」が走り去っていく。当時、「雷鳥」はボンネット型の先頭車が使われている率がとても高かった。
 当時は、近くに機関区が2つもあり、周辺に貨物の積み卸し場所や入れ換え線、留置線も数多くあり、他に小浜線や敦賀港線、柳ヶ瀬線などの分岐もあったことで、この敦賀駅は、京都駅以上に広さを感じさせる駅構内ではあった。

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今となっては、何を撮っているのか分からない写真だが、左に見える黒い貨車も、右に見える旧型客車も、当時は全く珍しいモノではなかった。中央、遠くに見える扇形庫の中に、除雪車のラッセルヘッドが見えていて、それが当時は珍しくてシャッターを切っていたようだ。

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続きのカットになると、より、それが分かるように写っていた。

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敦賀駅に隣接していた敦賀第一機関区は、その後、国鉄がJRに変わるまでに無くなってしまった。かつてはD51など大型の蒸気機関車が集っていた扇形庫も取り壊され、今ではこの辺りには、間もなく開業するであろう北陸新幹線の敦賀駅が建っている。

ちなみに、かつて敦賀駅から分岐していた敦賀港線は、廃止になった2009年以降、将来の「再開」の可能性も踏まえて、長らくレールが残ったままになっていたが、2019(平成31、令和元)年になって、正式に廃止となってしまったという。
 しかし、旧敦賀港駅の周辺で蒸気機関車を走らせる計画が今もあるようで、一部でそのための線路施設が残っているという。

鉄道関連ニュース

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。