1980年代半ばの昭和50年代のまだJRが国鉄だった頃の話になるが、当時は機関区や操車場と呼ばれる機関車や電車といった車両が集うスペースで、訪れた鉄道ファンの「見学」という名の撮影がごく普通に許されていた場所がいくつもあった。
1983(昭和58)年の夏休み、飯田線へ「さよならゲタ電」の撮影に行った帰り道、浜松機関区へ立ち寄った(その1、その2←太字をクリックすると、それぞれのレポートに飛びます)。
ひとしきり機関区内を撮影した後、廃車→解体を待つ車両が並んでいた留置線の方へ移動する。
広い構内には、飯田線での運用が終わって半年が過ぎようとしていた元祖・湘南電車の80系が何本も留置してあった。
中間車に運転台取り付け改造したクハ85の姿もあった。よく見れば、パンタグラフが上がっており、今にも発車しそうな状況にあった。
しかし、それは解体のために移動する目的であって、今が「最後の旅路」の直前であることを思うと、何だか寂しい気持ちになった。
そこかしこにクハ68の姿があったが、2扉のクハ47を3扉化したものもあり、その姿はバラエティに富んでいた。
半流型のクモハ54(?)の姿もあった。いずれも、つい最近まで使用されていたもので、それほど車体に傷みは見られず、まだ使えそうな感じもした。
旧型国電の最後の牙城だった飯田線も、この年の夏に運用を終えてしまった。だが、多くの旧型国電の車齢は50年未満だったし、飯田線で使われていた80系300番台は全金属製ボディで車齢にして30年に満たなかった。
この時から40年が経った今、JR西日本では3月のダイヤ改正で旧国鉄時代から使われていた電車の引退が次々と発表されているが、それらの車両の多くは40年、50年以上も使われてきたものだった。そう考えると、あのとき姿を消していた旧型国電は、当時言われていたほど「老朽化」が本当の要因とは思えず、もう少し使えたのではないかと思ってしまうのだった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。