1988(昭和63)年の夏休み終盤、広島方面を旅行した。
バブルの真っ只中だった当時、春には瀬戸大橋・青函トンネルの開通があった一方で、あちこちで博覧会が開かれており、全国各地で大きなイベントが次々に開かれている状況だった。
当時、大学に在学しながらアルバイトで撮影をしていたが、好景気で仕事が多く、けっこう稼いでいたこともあり、お金が貯まるとすぐに撮影旅行に出掛けていた。北海道へは、この年だけで3度も行ったぐらいだった。
8月30日に北海道から帰って来て、その翌日である31日は大阪発の夜行急行「だいせん」に乗って、山陰方面へ向かっていた
翌朝、宍道駅で下車して、木次線に乗り換えた。(その時の様子はこちら←クリックすると記事に飛びます)
木次線のディーゼルカーに乗り込み、最初に下車したのは、映画「砂の器」の舞台にもなった亀嵩駅だった。
この駅は、駅舎が「出雲そば」のお店になっており、遅めの朝食というか早めの昼食というべきか、ここで食事をすることにしていた。
亀嵩駅は、かつては列車が交換できたようだが、このときは既に駅舎の向かい側にある線路が撤去されていて、1面1線のホームになっていた。
駅員はいなかったが、かつては荷物の取り扱いがあったらしく、クラシカルな秤(はかり)が役目を終えて置いてあった。
次の列車に乗り込み、隣の出雲横田駅で対向列車とのすれ違いがあるため停車したので、ここでいったん下車。
駅前に出てみると、見るからに立派な駅舎だったが、乗降客の姿はほとんど見当たらなかった。
ここでは列車交換があるので、駅員さんがタブレットを肩に提げて待機していた。
木次線を通る唯一の優等列車だったと記憶しているが、急行「ちどり」が小さなヘッドマークを掲げてやって来た。
色々な種類のサボ(行き先方向板)が置いてあった。背後にはカンテラも。
駅には売店のようなスペースがあり、地元で産出する「名水」も70円で売っていた。
さらに2つ先の駅である、出雲坂根駅で下車。
ここはスイッチバック式になっていることで知られている駅で、構内には、それを示す看板が立っていた。
駅の待合室には「黄色ポスト」なるものがあり、「青少年に良い環境を」と大書してあった。その昔、「有害図書をここに捨てて下さい」などと書かれた、こういう感じのポストが駅構内によくあったものだが、いつの間にか姿を消してしまった。今も、どこかにあるのだろうか。
改札口の上には、一応、時刻表があったが、上下合わせても14本(休日は2本減)だった。この時から35年が経過した今は、なんと半減以下の6本しかないらしい。
スイッチバックの駅だけあって、手動で操作するポイントの転轍機がいっぱいあった。
この日、お世話になった車両は、両運転台のキハ53の単行だった。
ようやく終点の備後落合駅に到着した。
芸備線との乗り換え駅で、かつてはC56といった蒸気機関車で賑わっていた構内に車両の姿は無く、周辺の過疎化も進んだことで、広い駅構内は、この当時でも閑散としていた。
今は芸備線ともども、廃止が論議されるようになっているが、35年前のこの当時でも、列車内はがらがらだったし、どこの駅に行っても、他に乗客の姿をほとんど見ることが出来なかった。そう考えると、JR西日本は、よくぞ35年の間、この状況でも列車の運行を続けられているな、と思わずにはいられない。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。