1979(昭和54)年2月、小学校の同級生たちと一緒に行っていた「撮影会」で、日帰りではあるが遠方まで初めて遠征することになった。
行き先は、当時の鉄道雑誌で何度も紙面を飾っていて、ファンの間に撮影の好ポイントとして知られていた、北陸線の新疋田-敦賀にあるループ線近くである。(その1はこちら←クリックすると記事に飛びます)
米原駅からの北陸線は、旧型客車で編成された普通列車(1247レ)だった。
当時の北陸線は、およそ1時間に1本ほどのペースで、旧型客車で編成された普通列車が、真っ赤なEF70のけん引で走っていた。郵便・荷物車も併結していることが多く、8~10両編成という長さがよく見られた。
同じく、およそ1時間に1本のペースで上り大阪行きの特急「雷鳥」が姿を見せていたが、同じ485系でもボンネット型もあれば、貫通型、非貫通型に加えて、寝台列車運用が減って余剰気味になっていた583系で編成されたものもあった。
他にも、最盛期より本数は減ったとはいえ、475系の急行「立山」「ゆのくに」「くずりゅう」が走っていた。既にビュッフェ車は外されていたが、堂々の12両編成で走っているものも見られた。
特急も、他に「しらさぎ」「加越」「白鳥」の485系が見られた。前年の9月までは、さらに「北越」の姿も見られた。
湖西線経由の貨物列車は、EF81けん引だったが、たまに単機回送の姿も見られた。写真のEF81-115は、国鉄がJRに代わった際にJR貨物の所属となり、その後、715号機に改番された。
下りの特急「雷鳥」が通過していく。右下にある小屋は、何に使うものなのだろう、と思ってたら、しばらくして保線係の人たちが歩いてやってきて、この小屋に入って休憩している姿が見られた。そのとき、煙突から黒い煙が出ていたので、暖を取るために、中で石炭ストーブでも焚いているようだった。
新疋田駅に戻るとき、14系座席車で編成された下り急行「加賀」が通過していった。当時、14系座席車で編成された特急や急行が各地でけっこう走っており、北陸線でも他に臨時の特急「雷鳥」でも使われていた。
その急行「加賀」の上り列車で帰ることになったので、新疋田から敦賀へ移動する。普通列車を待っていたら、旧型客車ではなく、急行で使われていた475系が姿を見せた。
敦賀から大阪行きの急行「加賀」に乗り込んだ。
敦賀駅を出て間もなく、敦賀第二機関区に保存してあるED70の姿が見えた。北陸地区の交流電化で、最初の大きな足跡を残したED70だったが、役割を終えて残されたのはトップナンバーの1号機のみ。貫通路も溶接されてしまい、原型とはかけ離れた姿になった上に雨ざらしでの保存だったので、このまま朽ち果ててしまうのではと心配になったものだ。しかし、時は流れて幸運にも長浜駅前にある長浜鉄道スクエアに移されることになり、今では大切に屋内保管されている。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。