世紀の大事業と言われた青函トンネルと瀬戸大橋が開通した1988(昭和63)年は、初めて鉄道が北海道と本州、四国、九州と相互で結ばれる歴史的な年となった。
代わりに青函連絡船と宇高連絡船が姿を消したが、インパクトで言えば、新幹線が新たに開業するのと同等か、それ以上のものがあったように思う。
青函トンネルが開業した日、北海道を訪れる旅行を企画し、運行最終日の前夜に運航される青函連絡船に乗って北海道に渡り、運行初日の青函トンネルで本州に戻るというスケジュールを立てていた。函館まで区間延長になった寝台特急「日本海」の切符を手配したのだが、延長運転初日の列車ということで入手難を予想していたものの、あっさりと手に入ったので拍子抜けしたのを覚えている。
青函トンネル開通初日は、函館から盛岡へ向かう上り特急「はつかり」の初列車を函館駅で撮影した後、函館線に乗って大沼駅へ向かった。ここで運転初日の上野発、札幌行きの寝台特急「北斗星」を撮影するためだった。
この日は、あいにくの天気で、小雨がパラつく中、かなり肌寒く感じた。朝のラッシュタイムは、キハ22やキハ40が何両も連なった編成が普通列車として走っていた。
ただ、この日は日曜日だったので、不必要に長い編成ではあった。今では、こんな非効率な運用は見られないだろう。
北海道の貨物列車は、2軸ボギーの有蓋車が何両も連なって壮観で、それは自分の地元である関西では見られないものだった。
キハ183系の特急「北斗」の姿が頻繁に見られた。ディーゼルエンジンを全開にして走っていて、その姿は東海道・山陽線で同じように全開走行していたキハ181系の特急「はまかぜ」と似ていたが、編成の長さがある分、こちらの方が迫力があるように感じた。
当時の北海道は、各地でキハ22が健在で、まだかなりの両数が活躍を続けていた。
バブル真っ只中の当時、北海道にはいくつもの「リゾート列車」が運行されていた。キハ56系を改造した「アルファコンチネンタルエキスプレス」に続き、キハ80系を改造した「フラノエクスプレス」「トマムサホロエクスプレス」が登場した。そのうちの「トマムサホロエクスプレス」が姿を現した。
DD51重連がけん引する寝台特急「北斗星」が、ようやくやって来た。「北斗星」をけん引するDD51重連と言えば、ブルー車体のイメージがあるが、運転開始の当初は、まだDD51は塗りかえられておらず、しばらくは赤いノーマルなカラーの機関車も任務にあたっていた。
朝のラッシュタイムが終わり、普通列車は編成が短くなっていた。キハ40系の2両編成が姿を見せた。
そして、お昼前には、単行で走るキハ22の姿。次々と通過していく、函館と札幌を結ぶ特急には多くの乗客の姿が見られたが、地元を走る普通列車の方は、朝夕を除くと閑散としていた状況が当時でも見られた。
かつては石炭を運ぶ長い貨物列車と、それをけん引する蒸気機関車で賑わっていたであろう構内は、このときには既に無駄に広く見えていて、少し寂しさを感じさせた。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。