1980(昭和55)年の夏休み初日は、当時所属していた学校の写真部の撮影会だった。
その日は、毎日鉄道写真が撮れるからという理由だけで、東海道線に隣接した私立高校に進学したという写真部のOBである先輩も含めて、部員のみんなで朝からあ京都市東山区にある跨線橋で撮影に臨んだ。
東京発、大阪行きの寝台急行「銀河」も、この当時は、まだ元祖ブルートレインの20系が使われていた。
朝イチの夜行列車が行き交う時間帯を過ぎると、通勤・通学のラッシュタイムで多くの電車が通過するところだが、この日は日曜日なので、本数は少なめ。113系が見飽きるほど通っていたが、この当時は、まだ非冷房車も走っていて、屋根上には丸いグローブ型ベンチレーター(通風器)=通称グロベンが並んでいた。
デビュー間もない新快速用の117系も、朝夕の時間帯には2編成を併結して12両編成となって快速の運用に入っていたが、1両に2扉しかないので、混雑が酷いときには通勤客に不評だったようだ。
朝夕のラッシュタイムが一段落してから、青森初、大阪行きの上り寝台特急「日本海4号」が通り、それを追うようにして117系「新快速」が並んで通り過ぎて行った。
急行荷物列車と言えば、当時はEF58が殆どだったが、たまにEF61も混じって運用されていた。
すぐ横の東海道新幹線では、0系が行き交っていた。が、当時の新幹線と言えば、東海道・山陽しかない上に、そこを走っているのは0系しかなく、大半の鉄道ファンからは見飽きた存在でもあった。
撮影していた跨線橋の下には、京阪電車が行き交っていたので、帰り道に撮影。
この当時、京阪特急と言えば、ハトのマークを掲げた3000系だった。
今は、この辺りから地下に潜っていくが、当時は鴨川沿いの築堤の上を走っていた。
七条駅から帰りに乗ったのは、旧特急車である1900系だった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。