1982(昭和57)年の夏休み、「青春18のびのびきっぷ(現・青春18きっぷ)」を使って各地を旅した。
大垣夜行に乗って関東方面へ遠征した後、中央線経由で関西に戻り、加古川線や三木線を巡ってから京都に戻ったが、家には帰らず、そのまま山陰線の夜行鈍行「山陰」に乗った。
この当時、京都発、出雲市行きの寝台車連結の夜行普通列車「山陰」は、まだ旧型客車で編成されていた。
「普通」列車なので、全部の駅に停車するかと言えば、実際にはそうではなくて、意外と通過する駅も多かった。
だが、当時の山陰線は、ほかにも夜行列車が何本も走っており、途中ですれ違いのために何分も停車することがあった。
真っ暗な山の中にある駅に停車中、東京方面に向かう寝台特急「出雲」とすれ違った。
エアコンの無い旧型客車なので、もっぱら天井で扇風機が回っていた。
夜とはいえ、真夏の暑さにたまらず窓を少し開けると、爽やかな風が入ってきて気持ち良かったが、駅に停車する度に虫が入ってきてしまうので困った。
夜が明けると、列車は田園地帯にある築堤の上を走っていた。
最後尾の車両に乗車していたが、一番後ろは扉の無い貫通路なので、格好の展望スポットではあった。
倉吉駅に着いたら、倉吉線用と思われる客車が止まっていた。
当時の国鉄・倉吉線は、線路の状態が悪く、「日本一鈍足な列車」が運行される路線で有名だった。大半の列車が表定速度20km/h未満だったので、「マラソンランナーより遅い」とまで言われていた。
その結果、第3セクター化されることもなく、1985(昭和60)年4月1日に廃止となってしまった。
当時、この倉吉線では、貨車と客車を混結する「混合列車」が依然として走っていることでも知られていた。
ここで「山陰」を降りて、折り返す。
米子から折り返しで乗った普通列車も、当たり前のように旧型客車で編成されていた。
今では普通列車といえば、せいぜい2両編成とかが行き交うことが多い山陰線の鳥取~但馬地域だが、この当時は短くても4両で、多くで7両とか8両ぐらいで編成された旧型客車を、オレンジ色のDD51がけん引しているのが当たり前の光景ではあった。
鳥取の手前にある岩美駅に着いた。
通学の時間帯を迎えて、中高生が乗り降りするようになっていた。
今と違って、当時は土曜日にも授業はあったが、自分はまだ夏休み中だったのに、この辺りはもう2学期が始まってしまっているのだろうか。それとも、部活動で登校しているのかは、分からなかった。
山陰線の客車列車には、郵便荷物車が連結されているものが複数あり、大きな駅に到着する度に積み込まれた新聞や郵便物、荷物などが積み降ろしされていた。そのため、大きな駅では少なくとも3分以上は停車していることが多かった。
途中の駅で、浜田行きの寝台特急「出雲」とすれ違った。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。