時代が昭和から平成に変わった1989(平成元)年1月の始め。自分の人生にとって「改元」は初めての出来事だったが、昭和天皇が崩御された直後に、京都御所に記帳所が設けられたと聞いて、友人たちと記帳しに行ったことを覚えている。
普段着で訪れた京都御所だったが、周りは喪服を着た大人が多く、場違いな所へ来てしまったと思ったが、それでも行列に並んで記帳は済ませてきたのだった。
そんな平成時代の始まりの頃、朝イチに山科駅を訪れた。ここのホーム端は、超望遠レンズを使っての好撮影スポットだったからで、時折訪れていた場所でもあった。
到着して早々に、亀山機関区所属のDD51-1042号機が単機で目の前を通過していった。第2名神高速道路が開通した今からは想像もできないが、当時は、大阪や兵庫・山陰方面から京都を経て、草津線から伊勢・鳥羽方面へ直通する団体臨時列車がわりと頻繁に運行されており、そのための機関車の回送はよく見られた光景でもあった。
毎朝、見られた光景が、その草津線から京都まで直通する50系の客車列車だった。今も京都から草津線へ直通する列車(電車)は残っているが、電車だと多くは6両編成程度の長さであるのに対して、客車で運行されていた頃は、みな8両とか9両編成の長さがあったので、見た目にも壮観だった。
DD51-1032を先頭に姿を見せた京都行きの列車は、所々で蒸気暖房の真っ白な湯気が立ち上っていた。
今は琵琶湖線と呼んでいる東海道線では、湘南色の113系が主力で走り回っていた。まだ目玉の大きい初期型も健在だった。
一方で、当時の最新車両である221系も活躍の範囲を広げている最中だった。
まだバブル景気の真っ只中、あちこちで博覧会が開かれており、それに合わせたヘッドマークを取り付けた列車もよく見られた。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。