1983(昭和58)年の春休みは、まだ旧型国電が最後の活躍をしていた国鉄・飯田線へ乗りに行く旅を計画していた。
*1983年3月27日(日) 飯田線←太字をクリックすると記事に飛びます
この旅行では、出だしに思わぬ踏切事故に巻き込まれ(↑上記、前の記事を参照)、計画していた貴重な旧型国電に乗っての飯田線の旅は、置き換えた新型車両である119系の旅に変わってしまった。
豊橋-豊川駅間で、何とか希少なクモハユニ64に乗ることが出来たが、その後は新車の119系4両編成での旅になった。
車窓から見えた天竜川の青さに驚かされたが、よく考えたら、それをイメージした水色の車体である119系に乗っていたのだった。
この年の2月まで走っていた80系はオレンジと緑の湘南色だったし、残存していた旧型国電は黄色っぽいクリーム色と紺色のいわゆる「スカ色(=横須賀線の色)」だったので、一般客から見れば斬新なカラーに見えたことだろう。そもそも、お古の電車ばかり走っていた飯田線に、あえて新造車両を投入した当時の国鉄の考えは、今となっては知るよしもない。
中部天竜駅の構内には、80系を置き換えるのに一役買った165系が留置されていた。
中部天竜駅の駅名標は、国鉄っぽさはなく、どこか私鉄のような感じがした。
次の停車駅の佐久間駅でも、列車交換のためにしばらく停車だった。
飯田線は、どう見てもローカル線だが、まだ貨物列車も走っていたし、何よりタブレット交換式の単線だったので、駅ですれ違う際に3分とか5分以上も停車することが何度もあった。
近くに佐久間ダムがあることで知られる佐久間駅だが、前方にはそびえ立つ山が迫っていて、これから山岳地帯に突入し、何度もトンネルをくぐることになることを予感させた。
駅の前後をトンネルに挟まれた大嵐駅に停車。乗降客の姿は見当たらなかった。
愛知県、長野県、岐阜県の3県境にある小和田駅に到着。ここも駅前には当時、一応2軒の家があるとのことだったが、既に空き家だと聞いた。
道路が通じてない場所なので、列車でしか行けない場所なのだが、集落も無い状況で、なぜ廃駅にならないのか不思議なくらいだった。が、列車すれ違いでタブレット受け渡しの作業が必要なため、当時は有人駅だったので、まだ硬券の入場券も売っていた。
既に日が傾き、薄暗くなってきた中、すれ違いのクハユニ56を先頭にした普通電車が先に出発して行った。
天竜峡駅には、役目を終えたクモニ83-100番台が留置してあるのが見えた。
既に夜になっていたが、すれ違う電車が旧型国電ばかりで、悔しさばかりが募っていた。
事故さえなければ、乗れていたのに…と思い、実際、この後、旧型国電で飯田線の豊橋-辰野の全線を乗る機会は得られなかった。
このときは旧型国電に乗りに行ったのに、なぜか新車の119系に乗る旅になってしまったのだが、その置き換えた方の119系も既に姿を消してしまっている。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。