2011(平成23)年7月初め、青森を訪れた。
大阪と青森を結ぶ寝台特急「日本海」は、10回以上も利用した実績があり、自分の人生の中ではブルートレインの中で断トツの乗車回数を誇るのだが、奇しくもこの時が最後の利用機会になった。(詳しくは「寝台特急「日本海」、最後の乗車」のレポートへ←太字をクリックすると記事に飛びます)
かつて青函連絡船への乗り継ぎで、にぎわっていた青森駅も、1988(昭和63)年春の青函トンネル開通で様変わりした。航送の貨車で埋め尽くされていた、あの広かったヤードも姿を消して、いくつもあった桟橋(可動橋)も無くなった。
久しぶりに訪れた青森は、心なしか駅前も人の姿が少なくなり、寂しくなっていた気がした。
青森港には、「メモリアルシップ」として、青函連絡船の八甲田丸が保存された。
煙突にあったJRマークは、国鉄時代のJNRマークに戻っていた。
青函連絡船で航送する貨車を出し入れする際に使っていた桟橋(可動橋)も、一つだけ保存されていたが、八甲田丸とつながった状態ではなかった。
かつては、青森駅から連絡通路でつながっていた桟橋だったが、今では連絡通路などは撤去されてしまったため、今では一度、青森駅を出ないと行けなくなった。
八甲田丸は記念館のようになっているので、入場料を払えば中に入ることができる。
現役時代だと乗客は入ることができなかった操舵室や、航送貨物を積み込むスペースにも入ることができる。
その航送貨物のスペースには、各種保存車両が展示してあった。
北海道で活躍していたキハ82型特急用気動車や、DD16などが展示してあったが、いずれも部品の盗難?紛失?が目に付いて残念な状態だった。
キハ82は、かつて関西地区でも見ることができたので、どこか懐かしい感じがした。
連絡線へ航送の貨物車を積み込む際、重量のある機関車が可動式の桟橋上に載らないよう、間に挟んで運用する「控車」ヒ600も保存してあったが、検査日程の書き込みに有り得ない「(昭和)65」の文字を見て、ちょうど昭和から平成に変わる前に連絡船が無くなったことを思い出させた。
恐ろしく活躍期間が短いものになった、50系の郵便荷物車スユニ50も2両、展示してあった。
台車は、改造前の種車だった旧型客車の重厚なTR47のままだった。
スユニ50は郵便・荷物の鉄道輸送が1986(昭和61)年に全廃されたことにより、最も新しい1983(昭和58)年に製造(=車体は新製だが、台枠と連結器を種車から流用しているため書類上は改造扱い)された車両は、実働が3年に満たないものになった。国鉄時代の末期とはいえ、今では考えられない「無駄遣い」の象徴みたいなことになってしまっていた。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。