1987(昭和62)年の春から秋にかけて、京都市内北部の洛北地域を走る叡山電鉄を連日のように撮影していた時期があった。
少し前(1985年)まで「京福電鉄」だったものが、経営の悪化により分社化されて「叡山電鉄」に変わって間もない頃だった。とはいえ、地元では昔から「叡電(えいでん)」と呼ばれており、会社の名称が変わっても、目に見えた変化と言えば、駅にある会社名の表示と、車体にある社章ぐらいだった。
昔から無人駅が多かったが、それぞれ終端駅でもある出町柳と鞍馬、八瀬の3駅には駅員が常駐していた。
この頃、走っている車両は、デオ200、デオ300、デオ600、デオ720の4種類だった。このうち、デオ720はデオ200を改造して車体を載せ替えたものであり、その増備が進んでいる最中だったので、次第にデオ200が数を減らしていた。
単行で走っていたデオ200は、出町柳-八瀬遊園で運用されていることが多かったが、いつも「スポーツバレー京都(=旧八瀬遊園)」のマークを掲げて走っていた。
出発するデオ200とすれ違うようにして、当時の最新型であるデオ600が入線してきた。狭い出町柳駅だったが、3線ある構内がフルに活用されていた。
デオ600は、単行で運用されているものは、出町柳-二軒茶屋で運用されていることが多かった。
一方で、2両編成のものは、出町柳-鞍馬で運用されていたが、いずれにしても当時、冷房車は無かったので、あちこちの窓が開け放たれていた。先頭車も、運転台前を除けば窓が開けられていたので、少し走ると先頭車の前方から風が車内を吹き抜けていて、35度を超えるような真夏でもなければ、それほど暑さは感じなかったように思う。
行き先案内も、当時はデジタル式など無いのは当たり前で、方向幕式でもなく、単にあらかじめ設定してある駅名の部分が点灯するだけの、アナログなものだった。
1989(平成元)年5月に京阪鴨東線が開通してからは、出町柳駅で接続するようになったが、1978(昭和53)年9月の市電全廃以降、孤立した路線だった当時の叡山電鉄は客も少なく、オーバーに言えば「いつ廃線になってしまうのか」と地元住民が心配してしまうほどの赤字続きの路線ではあった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。