鉄道写真を撮り始めた小学生の頃は、母から譲り受けたレンズ固定タイプのレンジファインダーカメラを使っていた。
フジカ35-Mというカメラだったが、露出計は付いておらず、レンズシャッター方式だった。絞りが開放f2.8(最小値f22)の45ミリレンズだったが、シャッタースピードがB(バルブ)、1秒、1/2秒、1/4秒、1/10秒、1/25秒、1/50秒、1/100秒、1/200秒、1/400秒という変則的な数値だった。
中学に入学した時、貯めてあった貯金を崩して待望の一眼レフカメラを購入することになった。当時、岡山県倉敷市に住んでいた祖父から知り合いのカメラ店を紹介してもらったのだが、小学校卒業後の春休みに祖父宅に帰省していた際、そこの店主がわざわざカメラを持って売りに来てくれたのだった。
当初は、「連写一眼」のキャッチコピーで一世を風靡したキヤノンAE-1を購入するつもりだった。自動で巻き上げる「ワインダー」は1秒間に2コマという遅さだったが、独特の機械音が憧れの存在ではあった。
ところが、そのカメラ店主は、キヤノンAE-1だけでなく、新たに発売されて間もないニコンFEも持って来ていた。
どちらも50ミリf1.8の付いた標準セットだったが、その店主は最初からニコンFEをすすめてきた。キヤノンAE-1の方は、4G13(現在は4SR44)という高価な銀電池が必要なのに、すぐに消耗してしまうのに対して、ニコンの方はG13(SR44)2個で、しかも電池のもちが良いから経済的だよ、とのことだった。
2時間ほど迷った末に、結局、ニコンFEの方を購入したのには、実は他に決め手があった。それは、当時の同級生がニコンFを使っており、広角から望遠まで何本もの交換レンズを持っていたことだった。今は標準レンズ付きしか買えなくても、それを貸してもらえれば…と思ったのだった。
1980(昭和55)年9月、そんな同級生から広角レンズの28ミリと、105ミリ・200ミリの望遠レンズを借りて、東海道線の神足(現・長岡京)-山崎間へ撮影に出掛けたのだった。
早速、神足-山崎にある踏切で撮影を開始。EF65のF型貨物がやって来た。
28ミリだと迫力満点だが、ワインダーもモータードライブも無いので、シャッタ-を切るのは、まさに「一発勝負」での撮影ではあった。
EF81けん引の寝台特急「日本海」がやって来たが、当時はヘッドマークが無かったのが寂しかった。
レンズを付け替えて、105ミリでEF65一般型がけん引する一般貨物を撮影。珍しく、2軸貨車ではなく、ボギータイプが姿を見せた。
キハ28・58系の急行「たかやま」がやって来たが、非力な180馬力のエンジンを思い切りフル回転させて走っていた。
583系の寝台特急「なは」は、1978(昭和53)年10月から「明星」に代わって西鹿児島-京都を結んで走っていた。
デビューしたばかりの117系「シティライナー」は、朝夕には「新快速」よりも「快速」で走っている姿が多かった。今と違って、当時は朝夕のラッシュタイムには、あまり新快速が運行されてなかったからでもあった。
この頃は、まだ北陸方面と関西を結ぶ475系の急行が健在だったが、次第に往年のような長編成(12両)ではなくなり、ダイヤ改正の度に短編成化が進み、特急格上げの影響で本数も減っていくばかりだった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。