誰しも生まれてから成長と共に行動範囲が広がる。それは年齢を重ねれば重ねるほどで、例えば5歳と15歳、25歳では大幅に変わってくるものだ。
高校生になってから、初めて「ロードレーサー(*現在はロードバイクと呼ぶ)」という競技向けの速く走れる自転車の存在を知り、遂には手に入れることとなった。すると、行動範囲は大幅に広がり、自宅からバスや地下鉄、国鉄(→JR)を乗り継いで足を運んでいた撮影場所へ、自転車で行くことが可能となった。
1984(昭和59)年11月23日、「勤労感謝の日」の祝日に、初めて東海道線・山崎-高槻間での撮影に、京都市内の自宅から機材を背負って自転車で出掛けた。
ちなみに一緒に撮影を予定していた友人たちは、いつものようにバスや地下鉄、国鉄を利用しての撮影行だった。
ところが、ナビもスマホも無い時代、本屋で立ち読みして頭に叩き込んでいたハズの地図は役に立たず、何度も道に迷う羽目になり、現地への到着は大幅に遅くなってしまった。
現地に着いてすぐ、向日町操車場へ向かう上りの寝台特急「明星」の回送列車がやって来た。
上りの寝台特急「日本海4号」が姿を見せた。実は、この日、ヘッドマークが試験的に復活するという話を聞いたからこそ、この日の撮影行だったのだ。結果的に、その目的の列車に何とか間に合い、安堵した。
ちなみに、以前は24系25型の初期車が多かった「日本海」も、いつの間にか切妻型の100番台の姿が目立ち始めていた。
少し前までEF58の独壇場だった急行荷物列車も、その任にあたるのは信越線から転属してきたEF62になっていた。しかし、この後、すぐに荷物列車そのものが廃止になり、EF62が東海道・山陽線で活躍していた期間は短いものとなってしまった。
湖西線から北陸線へ向かう貨物列車は、EF81けん引だったが、2軸貨車で編成された一般貨物列車も、この後、すぐに姿を消してしまった。
北陸方面に向かう特急「雷鳥」は485系ばかりになっていたが、まだ食堂車とグリーン車2両を組み込んだ12両の堂々たる長編成で走っていた。
今回、当時の国鉄が試験的に「日本海」で復活させたヘッドマークは、翌1985(昭和60)年の春、正式に全てのブルートレインで復活させることとなった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。