維新の十傑の一人、岩倉具視が蟄居していたことで知られるのが、かつての岩倉村で、現在の京都市左京区岩倉である。
今でこそ地下鉄が国際会館まで達して、叡山電鉄の岩倉駅~木野駅周辺も住宅地となっているが、1980年代半ば頃までは、まだ一面に田園地帯が広がっていた。
1982(昭和57)年の10月、岩倉を撮影に訪れた。まだ叡山電鉄ではなく京福電鉄だった時代の鞍馬線は、基本的に上下線とも30分に1本しか走っていなかった。また、今では鞍馬行きの電車は、ほぼ全てが2両編成だが、当時はお客さんの少ないデータイムを中心に1両編成の単行も見られた。
2両編成は戦前製の古いデナ21型であることが多く、1両編成の単行はデオ200やデオ300が活躍していた。
撮影場所は、今では道路が地下をくぐる立体交差になっている辺りである。地下をくぐる道路が作られた、線路の北側は、当時は湿地になっており、食用ガエル(ヒキガエル)の鳴き声がよく聞こえたし、周辺の雑木林ではカブトムシやクワガタムシがよく採れた。
一方で、最新型(当時)であるデオ600も見られたが、当時は1両編成の単行と、2両編成の両方があった。(後年、2両編成のみになった)
写真の周辺に広がる田んぼには、赤白の模様が入った杭(標識)があちこちに見えるので、この当時にして、既に道路計画がされていたことが分かる。
小さな踏切で撮影していたが、当時は遮断器どころか、警音器も無く、電車の接近を知るには、目と耳で確認するしかなかった。
京阪線との直通構想の下に製造され、設計最高速度が100km/hというパワーもある高性能なデオ300は2両だけの存在だったが、ローカルな叡山電鉄線では、その性能を持て余し気味だったこともあり、製造から30年に満たない若い車齢で1988(昭和63)年に廃車されてしまった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。