1978(昭和53)年の夏休みも残り少なくなった頃、まだ出来上がってない宿題を放置したまま、カメラを手に始発の市電に乗り込んだ。京都駅からは、東海道線の下り電車に乗り込み、山崎駅に降り立った。
当時、九州と関西を結ぶ夜行列車は、特急だけでなく、急行も数多く走っており、それに加えて夏休み期間中は臨時列車も多かった。
しかし、山崎に行ったのは、この時が初めてで、全く土地勘が無く、駅を出てウロウロしてしまう始末。小学生の自分は、近くの人に尋ねる勇気も無く、結局は駅の近くで撮影することにしたのだった。
青森発、大阪行きの夜行急行「きたぐに」が姿を見せた。既に座席車は12系化されていたが、グリーン車と寝台車は旧型客車がまだ使われていた。
15分おきに153系の新快速(通称「ブルーライナー」)が姿を見せていた。

ブルーライナー色の153系は、多くが高運転台の後期型だったが、低運転台の初期型も混じっていた。

快速で走っていた湘南色の113系ばかりで、まさに飽きるほど走っていた。当時は、まだグリーン車が連結されていた。
貨物列車は、EF60やEH10が多く、他にはEF65やEF66、EF81も姿を見せていた。
北陸方面の特急は485系ばかりだったが、最も多かった「雷鳥」だけでなく、大阪と新潟を結ぶ「北越」や、大阪と青森を結ぶ「白鳥」も走っていた。
臨時の特急「あかつき」が姿を見せた。当時、寝台特急用のブルートレインは、まだ新たに24系25型や14系15型が製造されている頃で、臨時列車はもっぱら14系の座席車が多かった。

今度は臨時の特急「明星」がやって来たが、こちらも14系の座席車だった。

583系は、西鹿児島や熊本と大阪・京都を結ぶ「明星」と、宮崎や都城と大阪を結ぶ「彗星」、西鹿児島と新大阪を結ぶ「なは」に使われていた。

九州と大阪を結ぶ夜行の急行列車は、「あそ」「くにさき」「雲仙」「西海」とあったが、みな14系座席車で、新聞輸送用の荷物車が連結されていることが多かった。
帰り際、山崎駅で臨時の「彗星」がやって来た。こちらも14系座席車だった。けん引機は、大半がEF58だったが、臨時列車の増発で足りない時は、まだデビューしたばかりのEF65PFが姿を見せていた。

さらに夜行の急行がやってきたが、同じ14系座席車でも、急行に使われている時は、愛称名の表示が無く、真っ白になっていた。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。