山陰線の保津峡駅と言えば、今では橋の上にあり、電車が行き交う場所になっているが、かつては山間にある小さな駅だった。
今では嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車が行き交う場所になっているが、片方の線路が撤去されて相対式のホームではなくなり、すれ違いは無い。ハイカーが乗り降りし、釣り人も利用していた駅前の小さな雑貨店も姿を消してしまい、この旧保津峡駅(現トロッコ保津峡駅)で乗降する客はほとんど見られなくなってしまった。

朝のラッシュタイム、旧型客車で編成された京都行き普通が姿を見せた。先頭に立つのもDD51の初期型である41号機だった。
当時、新製の赤い50系客車への置き換えが進行中だったので、青や茶色の旧型客車が次第に姿を消していた時期だった。

上り京都行きの急行「丹後」がやって来た。当時、キハ28・58は見飽きた存在だったが、今では貴重なショットと化しているから、時間の経過とは恐ろしいものである。

当時、急行の編成のまま、間合い運用で普通として走っているものもあった。だが、見分け方は正面の真ん中上にある種別幕に「急行」とあるか、何も字の書かれてない「白紙」になっているかの違いしかなかった。

下りの旧型客車の普通と、上りの急行「丹後」がすれ違う。当時、単線だった山陰線では、こうしてすれ違う光景が頻繁に見られた。

キハ82系で編成された下りの特急「あさしお」が姿を見せた。これも見慣れた光景だったが、この年の夏、伯備線の電化で特急「やくも」に使われていたキハ181系が転用されて、「あさしお」「まつかぜ」「はまかぜ」に使われていたキハ82系を置き換えてしまったので、見納めとなってしまった。

急行「丹後」も、その後のダイヤ改正の度に、特急「あさしお」への格上げが進み、次第に数を減らしながら、山陰線の電化が進んだ1996(平成8)年3月まで走っていた。ちなみに、同じ時に特急「あさしお」の愛称名も廃止されてしまった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。