1981年8月初旬 下津井電鉄

1981(昭和56)年の夏休み、いつものように母方の実家がある岡山県倉敷市へ帰省した。
 その岡山への帰省は、いつも、京都から1時間で行ける新幹線を使わず、あえて3時間かかる在来線で行っていたのだが、それは単に旅費の節約という意味もあったものの、帰省=休み恒例の家族での「旅行」という意味もあった気がする。子どもは「旅」と聞くとワクワクするものだから、実は親による(単なる帰省じゃなくて家族旅行だよ、という)「深謀遠慮」もあったのかもしれない。
 そもそも、岡山まで新幹線が開通していなかった頃、まだ自分が幼稚園に入る前の時のこと、京都から岡山へ行くというのは大変で、当時、新大阪から急行「鷲羽」に乗って宇野駅まで行ったのを辛うじて覚えている。あの時は、完全に「旅行」だと感じたから、新幹線で1時間でビューっと行ってしまうと、もはや旅行とは言えなくなる気もする。

そして、翌年(=1982年)春に「青春18のびのびきっぷ(→後に『青春18きっぷ』に改称)」が出たことで、ますます安価で帰省できるようになり、それは祖父母が相次いで亡くなって母の実家が消えるまで続いた。

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そんな母方の実家がある児島地区には、数多くの親類の家があったが、瀬戸大橋の建設が始まり、それに伴う国鉄「備讃線(→JR化後に『瀬戸大橋線』として開通)」の建設で、親類が住んでいた家が立ち退きとなった。そして、この年の夏、その跡地に立派な高架が完成していることに気付いた。
 その前を、下津井電鉄バスが通り過ぎて行った。

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立ち退きが進んだ部分だけ完成した高架だったが、その前後は途切れていて、この時点では、完成はまだまだ先のように思われた。

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近くを走っていた下津井電鉄も、こうして帰省する度に撮影に出掛けていた。この年の夏は、線路が草ぼうぼうになっていた。

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この時は、一日中、クハ24+モハ103の2両編成が走っていた。いつも日中の閑散とした時間帯は、モハ1001の単行だったのに、と思って、下津井駅に着くと、その理由が分かった。

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当時、児島競艇場でレースが開催される時、下津井駅構内が臨時駐車場になっていたのだった。競艇場に向かうお客さんが下津井駅から電車に乗り、最寄りの琴海駅で降りるのだが、その利用客の多さも考えての、昼間の2両編成運行だったようだった。

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しかし、駐車車両であふれた下津井駅の構内。モハ1001は、さらに奥の左側に入庫しており、他の車両もクルマの奥にあったので、とても引き出せる状況ではなかったのだった。

鉄道関連ニュース

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。