1987年6~7月 山陰線・花園-嵯峨間

国鉄がJRに変わった1987(昭和62)年の春から秋にかけて、最後の活躍を見せていた客車列車を撮影するため、山陰線の京都口にある沿線へ頻繁に通っていた時期があった。
 当時は非電化単線で、列車の本数も少なく、いかにもローカル線という感じではあったが、朝夕のラッシュタイムだけは、単線とは思えないほと数多くの列車が行き交っていた。

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花園駅と嵯峨(現・嵯峨嵐山)駅の間には、今では太秦駅があるが、当時は無く、駅間の長い区間ではあった。高架ではなく、地平を走っていた上に、踏切もいっぱいあったので、撮影場所に困ることは無かった。
 既に旧型客車は姿を消していたが、赤い50系客車と、元は急行用の青い12系で編成された客車列車が、朝夕を中心にまだ数多く運転されていた。単線で、運転本数を増やすには限界があるので、自ずと一つの列車を編成する車両の数は多くなり、8~10両編成というのが普通に見られた。

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12系の方は冷房が装備されていたが、50系の方には無かったので、夏になると窓が殆ど開け放たれていた。

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旧型客車だと、乗降ドアや最後尾の貫通路すら開け放たれていたので、今から見ると危険極まりなかったのだが、走行中に転落というような話は聞いたことが無かった。

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現在、太秦駅がある場所の近くに今もある高架橋は、絶好の撮影ポイントだった。今は電化されて架線などが邪魔だが、当時は非電化だったので、見晴らしも良かった。

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データイムになると長い編成の客車は姿を見せなくなり、もっぱらキハ47系ばかりが運用されていた。

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昼間は列車の本数も少ないので、線路沿いを歩いている人がいたり、子どもの遊び場と化していた。今では到底、考えることが出来ない、古き「昭和」の光景ではある。

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主に急行「丹後」に使われていたキハ28・58系は、合間に普通列車でも運用されていた。京都に姿を見せる同系は、前面窓がパノラミックウインドウになっているのが特徴の最終型がよく目に付いた。

鉄道関連ニュース

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。