1994(平成6)年の年末から1995(平成7)年の年始の間、仕事で関東に滞在していた。あの阪神大震災が起こる直前の話である。

年末も押し迫った12月30日、東京駅から中央線に乗り、まずは八王子駅へ。続いて、八高線に乗った。

当時の八高線は非電化路線で、同じ1994年4月に電化工事が始まったところだった。そのため、この時はキハ30系の通勤用気動車がまだ活躍していた。

コンビを組むのは、まだ新しいキハ38だったが、いわゆる朱色一色の「首都圏色」だったキハ30系に比べ、白い車体が目立っていた。しかし、このキハ38も、実は国鉄時代の末期にキハ30系の足回りを流用して、車体のみを新しくしたもので、実際には新造車両ではなく「改造車」の扱いだった。

車内がロングシートの気動車=ディーゼルカーは、京都ではかつて奈良線などで見られたが、通勤用の車両が活躍するような路線は各地で「電化」が進んでおり、この頃には珍しい存在になっていた。

拝島駅では、奥多摩方面に向かう青梅線や、武蔵五日市に向かう五日市線との乗り換え駅になっていた。

かつては101系電車も走っていたが、この頃は高運転台型の103系ばかりになっていた。
拝島駅から五日市線に乗り、武蔵五日市へ向かった。
武蔵五日市駅構内は、すぐ横に留置線が何本もあって、いかにも終着駅という感じの風情だったが、横では高架工事が始まっていた。
駅舎も、地方でよく見るタイプだった。その後、高架工事の完成で、ホーム横の留置線も無くなり、利用客の減少で「みどりの窓口」まで無くなり、なんとも簡素な終着駅になってしまったようだ。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。