1980年12月29日(月) 下津井電鉄

かつて全国各地で鉄道建設がブームになった時代があったが、多くは規格が簡易で建設費も安く済む「軽便鉄道」であった。
 その後、輸送力の増加により、規格を上げて本格的な「鉄道」になったものもあったが、地方に建設されたものの多くは軽便鉄道のまま残り、戦後のモータリゼーションの頃まで活躍を続けていた。

中でもレール幅が762ミリという規格が、軽便鉄道の多くで採用されたのだが、当然のことながら大型車両は導入することが出来ず、大規模な輸送には無理があった。
 ただでさえ輸送力が低い状況の中、トラックや自動車の普及し始めた昭和30年代になると、並行して廃止される軽便鉄道も増えていき、昭和50年代を迎えた頃には、全国に残る軽便鉄道は手で数えられるほどになってしまっていた。

その一つだった岡山県の下津井電鉄は、徹底した合理化などで、昭和50年代を迎えても黒字経営を続けていた。

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母方の祖父母の実家が、下津井電鉄の線路近くにあり、春・夏・冬休みで帰省した時など、よく乗りに行った。近くの踏切には遮断器も警報機も無く、ただ「でんしやにちゅうい」と書いてある看板しかなかった。

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車体を左右に揺らしながら、2両編成の下津井行き電車がやって来たので、乗り込む。

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吊り革の無い車内は狭く、大人が向かい合わせに座ると、立った乗客は網棚の手すりしか体を支えるものが無く、身長の高くない人には大変だった。

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下津井駅に到着すると、奥の車庫に普段は使われていない3両編成の電車が留置してあったが、よく見ると中間車の姿が無く、2両編成になっていた。

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中間車の姿を探したら、別の場所で整備中だった。当時、ラッシュタイムであっても、3両編成が必要なほどの乗客はいなかったのだが…。

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別の場所には、荒れ果てた古い車両(モハ110)が放置してあった。窓ガラスは割れ、パンタグラフも無かったが、この車両は、後年、鷲羽山駅の駅舎として復活することになる。

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かつて使われていた貨車だろうか、こちらも荒れ放題になっていた。

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中間車を整備している方の車庫の片隅には、レール運搬用だろうか、無蓋車の姿があった。

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当時、運行されていた車両は全て整理券式のワンマンカーだった。料金は、距離に応じて100円、150円、200円という分かりやすいものだった。

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帰りは運転席の真後ろに陣取る。鷲羽山駅に進入するところだが、1987(昭和62)年秋、この駅舎は取り壊された上に、駅そのものが少し移動して、その駅舎として前述の古い車両(モハ110)が日の目を見ることになった(注*ウィキペディアでは1988年3月となっているが、1987年12月には既に駅が移転しており、真新しいモハ110の駅舎になっていた)。
 しかし、1991(平成3)年1月1日に下津井電鉄そのものが廃止になり、この電車型駅舎も姿を消してしまった。

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次の琴海駅には、かつて交換(=行き違い)設備があった。こちらも、瀬戸大橋開業に合わせた観光客の増加に合わせて、1987(昭和62)年秋に交換設備を復活させた。
 当時、瀬戸大橋の開業が近付くと、びっくりするぐらい下津井電鉄も乗客が増えていたのだった。

だが、瀬戸大橋の観光バブルは橋が開業後に、すぐにはじけてしまい、見込みを誤って過大な投資をしたツケだけが残って、下津井電鉄が廃止される大きな原因となってしまったのは皮肉だった。

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。