1987(昭和62)年は、4月1日に国鉄がJRに変わった歴史的な年だったが、その後、春から夏にかけて、山陰線を走る客車列車をけん引するDD51を毎日のように撮影に出掛けた。
梅雨入り直前の6月初め、保津峡駅を訪れた。この頃、山陰線の京都口では、朝夕のラッシュタイムを中心に数多くの客車列車が運行されていた。
既に旧型客車は姿を見せなくなっており、真っ赤な50系か、エアコンを装備した12系が充当されていた。12系の方は、出入り口付近がロングシート化されて、車体の白帯が無い青一色の1000番台と、通常の0番台が入り交じって運用されていた。
暑い時期は、当然のことながら、クーラーのある12系の方が乗客には人気があった。
しかし、運転する機関車の方には、この頃はクーラーなど装備されてなかった。
今ではトロッコ列車の行き交う保津峡駅も、この当時は、普通に一般客の利用する駅だった。朝には、少し離れた水尾の集落から京都市内に通う通勤・通学客が、この駅を利用していた。
既に複線電化に向けた工事が始まっており、保津峡界隈が大きく変貌しようとしていた頃だった。
この時代、列車がトンネルに入る前には、必ず汽笛を鳴らしていたものだが、それも今や遠い思い出の風景になりつつある。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。