京都駅から山陰地方を縦断して山口県下関まで結ぶのが山陰線だが、今では京都口で「JR嵯峨野線」と呼ばれている。そのため、京都市内などでは、若い人の間で「山陰線」と言ってもピンと来ない人もいるようだ。
京都でも山陰線と呼ばれていた当時は、まだ電化もされておらず、ほぼ単線だったため、いかにもローカル線という感じだった。走っている列車の本数も少なく、ディーゼル機関車が客車を引っ張る昔ながらの普通列車(鈍行)が朝夕を中心に数多く運転されていたし、貨物列車も走っていた。
京都駅から出発して2つ目の駅が二条駅だが、その北側に古レールで作られた歩行者用の跨線橋があり、恰好の撮影スポットになっていた↓(1981年11月10日撮影)
1988(昭和63)年6月のある日、早起きして原付バイクに乗り、その跨線橋へ撮影に行った。朝のラッシュタイム、山陰線では客車列車が何本も行き交っていた。
当時、山陰線の京都口を走っていた客車列車の車両は、既に旧型客車が姿を消しており、真っ赤な50系か、出入り台付近をロングシート化する近郊化改造を受けて白帯が消された青い12系1000番台と、改造を受けてない白帯の残った12系が入り混じって使われていた。開放型のデッキで、待ち切れぬ乗客が完全に列車が停止する前に飛び降りたりもしていた旧型客車とは異なり、近代的な50系と12系は自動ドアだったが、12系は元々が急行用の車両であり、利用する乗客には、言うまでもなく冷房の付いた12系の方が好評だった。
ラッシュタイムが終わる頃になると、急行「丹後」や特急「あさしお」が姿を見せるようになる。
架線が無いので、跨線橋の高さが低く、車両の屋根に近いこともあり、かなり迫力のある写真が撮れたが、まだ蒸気機関車=SLが走っていた時代だったら、同じポジションで撮影をしていると、思い切り煙にまかれてしまったことだろう。
7両とか8両といった長い編成の客車列車は、この頃には主に朝夕にしか見られなくなっていたので、それが目当てだった自分は、朝の時間帯が終わると「撮影終了」となるのだった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。