国鉄が分割民営化されJRに変わることが決まり、いよいよその日が迫って来た頃、多くの鉄道ファンは言いようもない不安を抱いていた。
それが何であるかは分からないのだが、何がどう変わるか分からないので不安だったのだ。恐らくは国鉄職員の方々も同じように不安を抱いていた人が少なくなかった筈で、実際、そういう話をよく聞いた。
残り1ヶ月を切った頃、いつものように通い慣れた東海道線の山崎-高槻間の撮影ポイントへ出掛けた。
ブルートレインの寝台特急「彗星」や「なは」が姿を見せた。この頃には既にヘッドマークが復活しており、すぐに列車名が分かるようになった。
「あかつき」には夜行バスへの対抗策として座席車が連結されるようになっていた。が、銀帯のブルートレインの中で、座席車のみ白帯だったので、編成の「美」が崩れていた。
ちなみにブルートレインが次々と姿を消すようになった2000年代以降は、経年劣化が進んだ車両の中で状態の良いものを運用していたこともあってか、金帯、銀帯、白帯がごちゃ混ぜになっている編成がごく普通の光景と化していた。
普通列車には、103系、201系、そして当時の最新だった205系が入り混じって走っていた。
関西地区の電車は、方向幕に行き先の地名を表示するのが通常だったが、なぜか205系のみ行き先ではなく「普通」といった種別を表示していた。
そんな中、臨時急行「ちくま・くろよん」の湘南色165・167系が通過して行った。
バブル景気に向かっていた当時、若者を中心にスキーがブームになりつつあった頃でもあった。当時の国鉄は、そうした需要を見越してスキー列車を数多く運行しており、関西からは583系で編成された「シュプール妙高・志賀」などが走っていた。
大阪と新潟を結ぶ夜行急行「きたぐに」も、この頃には583系での運行になっていた。
485系の特急は、関西と北陸を結ぶ「雷鳥」で見飽きるほど走っていて、撮影する意欲も湧かないほどだったが、その485系を改造した車両で編成され、大阪と山陰方面を結ぶ特急「北近畿」は、まだ珍しい存在だったこともあり、シャッターを切る意欲が持てた。6両編成で、なんとも頼りない短さだなと当時は思ったものだが、その後、JRになってからは2両とか3両といった短編成の特急も出現してしまった。
貨物列車では、これまで関西地区ではあまり見られなかったEF65の1000番台がよく姿を見せるようになっていた。一方で、EF60やEF61が姿を消してしまい、EF65の一般型も次第に見かける回数が減っていった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。