1978年4月5日(水) 阪急・梅田駅

春休み、夏休み、冬休み…学校が休みになる時期を迎えると、いつもどこへ行こうかワクワクしていた少年時代。
 小学生の頃は、そうした休みの度に祖父母の家へ帰省するのが決まりだったが、小学校4年生の夏休みからは、自分一人だけであったり、妹や従兄弟たちと一緒であったにしても、基本的に「子どもたち」だけで行くようになっていた。

昔から「小さい子には旅をさせろ」という言葉があり、それを文字通り実践していた我が家だったが、今の時代、既に死語になった感もあるし、「子どもだけで旅行なんて危険では…」という世の中になってしまったことが残念である。
 さすがに4年生の時は京都から尼崎にあった祖父母の家に行く程度だったが、5年生の時には岡山へ引っ越した祖父母宅へ行くようになり、中学生になってからは、日本全国を自力で旅行するようになった。今から思うと、親はたいそう心配していたかもしれないのだが、当の本人は、そうやって未知の場所へ旅に行くことが楽しくてしようがなかった。

母から譲り受けた古いカメラを手に、鉄道写真を撮るようになってから数ヶ月が経った春休み、岡山の祖父母宅へ帰省した帰りに、尼崎に住む従兄弟を送りに行った。従兄弟は年下の兄弟だったので、少しだけ年長である自分には、家まで送り届けるという「任務」があった訳である。その帰り道、阪急に乗って京都へ向かった。

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当時、阪急の各線には、まだ旧型の車両が走っていたが、急速に新型車両が配属になったため、既に珍しい存在になっていて、なかなかお目にかかれなかった。

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この当時、同じ阪急でも新しい車両の方が魅力的に映った。神戸線や宝塚線には6000系が次々と配備されている時だった。

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この頃、阪急はプロ野球のチームを持っていたので、西宮球場で試合がある日は、神戸線の車両には、よくヘッドマークが付いていた。

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京都線の特急は、専用の6300系が活躍を始めて間もない頃だった。

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ここで、フィルムが尽きたので、カラーフィルムに詰め替えた。

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宝塚線と京都線の急行は、ヘッドマーク(種別看板)の字が「急」の一文字だけだった。でも、神戸線は「急行」になっていて、何でその違いがあるのか不思議だった。
 その後、宝塚線、京都線とも「急」が「急行」に変わったりもしたが、そもそも方向幕を装備した車両が増えていったため、こうしたヘッドマークそのもの姿を消してしまった。

鉄道関連ニュース

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。