鉄道写真を撮り始めた頃、撮影に向かうのは、もっぱら「駅」だった。小学生にとって、駅こそ手軽な撮影場所だった訳だが、当時は日曜日になると、カメラを手にした子どもたちが駅のホームを走り回っている状況で、実際、事故も起きていた。
京都-大阪間の開業100年を祝ってSLが運行された時にも死亡事故が起こったし、他にも何度か死亡事故があった。そのため、子どもたちだけで撮影に出掛けるのを、親たちはきっと心配していたことだろう。
そういう親の気持ちは、自分が親の立場になるまで分からなかったが…。
1978年3月の日曜日、級友たちと市電に乗って京都駅へ向かい、そこから東海道線の電車に乗って東に向かい、滋賀県の守山駅で下車した。
なぜ守山駅へ行ったのか…それは「確か、あの辺りに電車の車庫がある」という曖昧な話からだった。
実際には、野洲駅の東に「野洲電車区」があったので、そのことだったのだが、当時、小学生だった自分たちには、ネットも無い時代、情報が無くて知る由もなかった。
守山駅へ行っても、(当たり前だが)何も無かったので、そこで折り返すことにしたが、その間、153系「新快速」やEH10けん引の貨物列車が目の前を通って行った。

京都駅に戻ると、寝台特急「明星」が1番ホームに停車していた。

その1番ホームは出入りが激しく、2番ホームとの間に京都と亀山を結んでいるDD51+旧型客車の編成が止まったかと思うと、伊勢・志摩方面へ向かうキハ58系の急行「平安」が入線してきた。DD51から蒸気暖房=SGの白い水蒸気立ち上っていた。

その後、EF58の初期型である4号機が先頭に立つ荷物列車が入線してきたが、こちらも蒸気暖房だったので、隣で止まっているDD51と合わせて、白い水蒸気が激しく立ち上っていた。

大阪方面行きの6番ホームに、特急「雷鳥」が滑り込む。後方に見える跨線橋が懐かしい。

当時は急行も数多く走っており、北陸方面からやって来た急行「ゆのくに」から多くの乗客が京都駅で降り立っていた。

その後、1番ホームに戻ると、向かいの2番ホームに153系「新快速」が入線してきた。当時、新快速は6両編成ばかりだったが、停車駅が今と比べて格段に少なく、例えば京都から西へ向かう姫路行きや西明石行きの新快速は、京都を出ると次の停車駅は大阪で、その間、全くのノンストップだった。

続いて、EF81を先頭にしたお座敷列車が姿を見せた。当時、車内が畳敷きになったお座敷列車は、団体貸切の列車として人気があった。
EF81が先頭に立っていたということは、北陸方面への列車だったと思われるが、この頃のお座敷列車の車両そのものは、グリーン車とはいえ、旧型客車の改造車だった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。