1987年5~6月 山陰線・保津峡駅

1987(昭和62)年の春、山陰線を走る客車列車をけん引するDD51にテーマを絞り、毎日のように撮影へ出掛けていた。
 この頃、客車列車は全国的に急速に姿を消していたが、山陰線の京都口では、旧型客車こそ姿を消していたものの、それを置き換えた自動ドアの50系客車「レッドトレイン」や、急行列車の削減で余っていたブルーの12系客車がラッシュ時を中心にまだ大活躍していた。

そんな山陰線の京都口でも、嵯峨(現・嵯峨嵐山)と馬堀の間にある保津峡駅を中心とした区間は、トンネルを何本も挟んで渓谷沿いを進むことから車窓で四季を感じられて、鉄道ファンでなくとも人気だった。
 嵯峨駅は、そんな保津峡への入り口みたいな感じだったが、今と違ってトロッコ列車の出発駅でもなく、駅前にはそれほど大きな施設も無かった。まして、当時は普通列車と言えばデータイムは1時間に2本程度しか走ってないような、いわばローカル線だった。

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JRになったばかりで、駅名の看板にJRのマークが入っていた。その前は「国鉄嵯峨駅」と書いてあったと思う。

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列車が来ない時間帯は改札口が閉鎖されていた。それぐらい本数が少ない訳で、15~20分に1本は走っている現在とは比べ物にならない。

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次の列車を知らせる告示版も、時刻や行き先の表示切り替えが、いかにもアナログな「手回し式」になっていて、今のデジタル式とは大違いだ。

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亀岡方面行きの客車列車がやって来た。先頭はDD51の1187号機だった。この1187号機は、山陰本線で活躍を続け、かつてはブルートレイン「出雲」の先頭にも立っていたが、2007年に廃車になった。が、幸いなことに保存されることになり、今では岡山県の津山扇形機関車庫にて展示されている。

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窓を開けて外の景色を見ていると、既に複線電化の工事が始まっていた。渓谷を進む列車の車窓に、その工事現場がいくつも目に入った。

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保津峡駅に列車が滑り込むと、向かい側のホーム上に遠足の児童たちの姿があった。

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保津峡駅に降り立ち、対向の京都方面行き客車を待っていると、ブルーの12系で編成された列車がやって来た。

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跨線橋の上から、京都方面に向かって出発する列車の後ろ姿を撮る。

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保津峡駅のホームは短く、7両分の長さしかなかったので、8両編成より長い列車は、一部車両がホームから完全にはみ出していた。
 そのため、はみ出す部分に乗っている乗客は、保津峡駅に到着する前に、移動しておかねばならなかった。自動ドアでは無く、デッキから自由に乗り降りが出来た旧型客車の時など、知ってか知らずか、そのまま線路まで飛び降りていた乗客もいたらしい。

鉄道関連ニュース

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。