1980(昭和55)年の夏休み、帰省先の岡山からの帰路、京都へと戻る家族たちと別れ、自分一人だけ逆方向の広島方面へ立ち寄った。
もちろん、それは目的あってのことで、山陽線の福山駅から出ている福塩線を走る70系電車と、瀬野機関区に残るEF59型を撮影するためだった。
岡山から普通電車に揺られて、まずは福山駅へ。
山陽線を走っていた湘南形=80系電車は、既に姿を消していたが、同じ「2枚窓」の前面を持つ70系電車は、まだ福塩線で活躍中だった。
福山城の真横にある福山駅では、ちょうど福塩線の電車が城の真ん前を通ることで知られていた。
ただ、当時の自分は広角レンズを持っておらず、とてもじゃないが標準レンズでは城の天守閣まで入れて一つの画面の中に写すことは出来なかった。
本当は、福塩線にも乗車して、また違う場所で写真を撮ってみたかったのだが、そんな時間的余裕は無かった。
新幹線を使えば、時間は稼げたのだが、中学生の自分には小遣いが足りず、とても無理だったので、その日のうちに京都に帰り着くためには、駆け足で回る必要があり、パシャパシャと70系電車を撮った後、再び広島方面へ向かう鈍行列車に身を委ねた。
次なる目的地は瀬野駅。三原駅を過ぎて、本郷駅に差し掛かった時、ホームに「あれ?」と思うような光景があり、思わず1枚撮影した。
かつて急行列車に連結されていた半室ビュッフェ車が、待合室代わりなのだろうか、一部の窓が改造された状態で置いてあった。
実は、この頃の山陽線には、いくつかの駅で、色々な車両が留置してあった。
例えば、柳井駅には80系の先頭車(クハ86)と中間電動車(モハ80)のトップナンバー車が留置してあり、厚狭駅には20系客車(ブルートレイン)の食堂車が何両も留置されていた。
瀬野駅に着くと、目的の機関区は隣にあって、ホームから丸見えだった。
職員の人に聞くと、構内の中には入れてあげられないが、外周部は構わないとのことだったので、近くまで歩いて行くことに。
その瀬野駅は、こじんまりとした駅舎だった。
ここを鉄道ファンが訪れるのは、山陽線の瀬野駅と、隣の八本松駅との間に急勾配区間があり、そこを走る貨物列車の最後部に「補機」と呼ばれる補助の電気機関車が連結されるため、その機関車が所属する機関区が存在しているからだった。
構内を見渡してみると、その補機であるEF59型とEF61型(200番台)がずらりと並んでいた。
目的はEF59型だったが、それらは機関区の中の方にいて、どう見ても近くへは行くことが出来そうになかった。
どうしようか迷っている自分の目の前を、これから出庫していくEF61型が横切っていった。
いかにも取って付けたような特徴的なデッキがあるのは反対側だけで、広島寄りの方はいたって普通の機関車の顔だった。
ちょうとお昼時だったからだろうか、構内は、どこかがらんとした感じで、時間がゆったりと流れていた。
もっと機関車が頻繁に出入りしているものと思っていたので、かなり想像したものとは違っていた。
立ち入って良いと言われた場所には、EF61型ばかりが体を休めていた。先ほどの反対側にあるサイドは、ご覧のような小さなデッキが付いていて、連結器周りも賑やかだ。これは、峠を越えて、役目を終えた補機を走行中に開放するための装置が付いているためだ。
その奥に見える広場では、昼休みを利用して、職員の方々が草野球をしていた。このとき、しばし試合の成り行きを見物していたことを覚えている。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。