小学校4年生の時から一人旅をしていた自分。今から考えると、よくも事件に巻き込まれたり、家出少年と間違われなかったなと思うし、親は快く送り出してくれたものの、内心はきっと心配していたのだろうなと、今になって思う。
1982(昭和57)年の春、当時の国鉄から初めて「青春18のびのびきっぷ」というものが発売された。普通列車と連絡船に限り、日本全国どこでも乗り放題というもので、主に春休みや夏休み、冬休みといった学校が休みの時期に発売され、当初は1日券3枚と2日券1枚のセットだった。
お金のなかった当時の自分にとって、これは重宝する切符だった。まだ当時は夜行に限らず長距離を走る鈍行列車がけっこう走っていて、京都を始発の列車に乗れば、その日のうちに東だと仙台まで行けた。
その後、「青春18きっぷ」と名前が変わり、価格改定が何度かあったものの、今の時代まで続いている。
今では金券ショップなどでもバラ売りしているが、当時は金券ショップもオークションも無かったので、余りが出ても自分で使うしかなかった。
1983(昭和58)年の春も、3泊4日で東北方面を旅行して1枚だけ余ったので、春休みも終わりに近付く頃、近場を日帰りで旅することにした。行き先は小浜線だった。
東舞鶴駅で待っていると、DE10型ディーゼル機関車が引っ張る旧型客車で編成された普通列車が滑り込んできた。
ホームの上では荷物の積み込みが行われていたが、当時は、地方を中心に普通列車でも荷物や郵便を運んでいたものだった。
写真を見れば、貨車の姿も見えて、まだ当時は貨物列車も走っていたことがうかがえる。
機関車の次に連結されていたのは、オハユニ61型という、戦後間もなくの時代、古い木造客車の骨組みを流用して作られた茶色い客車だった。荷物扉が木製だったのが、まず目に付いた。
「オハユニ」とは、客車の重量を表す「オ」と、普通車を表す「ハ」、郵便車を示す「ユ」、荷物車を示す「ニ」と意味している。ただ、それだけ色々な用途を一つの車両にまとめてしまっているので、それぞれの「部屋」は狭かった。
車内にある乗客用の椅子は、背もたれにモケットが張ってなくて、板張りのむきだしだった。これでは公園のベンチみたいなもので、座っている時間が長い長距離の利用だと、見るからに腰や背中が痛くなりそうだ。
天井の明かりも、裸電球そのものだった。
あらゆるところに「簡略化」というキーワードが見えた車両だったが、既に旧型客車、電車と呼ばれるものが次々と姿を消していたにも関わらず、まだ元気に活躍していたのが、当時の自分でさえ驚きだった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。