まだ運転免許を持ってなかった頃、最も「撮り鉄」で通ったのが、東海道本線の山崎-高槻間の撮影ポイントだった。
有名だったのが、通称サントリー前の大カーブだが、他にもいっぱい撮影ポイントがあり、休日など、撮り鉄の姿がそこかしこで見られたものだった。
サイドの窓が2つ多く、積雪地仕様の風貌も相まって「変形機」として親しまれた米原機関区所属のEF5836号機がけん引する急行「きたぐに」。
後部に寝台車5両を連結しているが、その前には普通座席車6両と郵便荷物車を連結していた。
この辺りも今ではマンションが立ち並び、見通しが悪くなってしまったが、当時は天王山をバックに走る列車を撮影することが出来た。
この頃、次から次にやって来たのが、EF58がけん引する急行荷物列車だった。
今ではトラック輸送が主体になった郵便・荷物輸送だが、この時代は、まだまだ鉄道が活躍していた。
工場に検査などで入場していた・入場する客車や機関車を併結して回送しているケースもよく見受けられたが、そもそも荷物列車自体が、旧型の茶色車体の車両と、新しい青色や銀色車体の車両が混在していたので、バラエティに富んでいた。
この当時、お座敷列車も人気があった。今で言えば、高齢者の団体バス旅行に該当するだろうが、高速道路が全国に普及してなかった時代だったので、こういった団体列車を見ることも多かった。
今と違う光景という意味では、この時代には「急行列車」がけっこう走っていた。関西地区と北陸方面を結ぶ急行列車「立山」と「ゆのくに」には、ヘッドマークが掲げられていた。
現在、JRの急行列車は、定期的に走っているのが1本のみで、それも2016年3月に姿を消すことが決まっており、ついに全廃されることとなった。
大阪と名古屋を結ぶ、急行「比叡」もまだ走っていたが、この頃には既に乗客の減少から編成も短くなり、グリーン車も連結されなくなってしまっていた。
同じ区間を夜行列車が何本も走っていた大阪と青森を、昼間に14時間もかけて結ぶ特急「白鳥」も、まだまだ現役だった。さすがに通しで乗る乗客は殆どいなかっただろうが、関西と北陸を結ぶ特急は「雷鳥」ばかりが走っていた中で、撮り鉄の視点から見れば、一つのアクセントになっていた。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。