鉄道写真を撮り始めて半年が経った。まだ小学生だったので、市電・市バスや国鉄は半額で乗れたが、肝心のお小遣いには限りがあるので、歩いても行ける市電や叡電の撮影を除けば、毎月1回ペースでしか撮影に出かけられなかった。だから、親の用事で大阪とか神戸なんかへ行くことがあれば、喜んで付いて行ったものだった。
今回は、たまたま山科へ行く用事があり、当然のごとくカメラを手にして市電に乗り、京都駅へ向かった。
まだ駅ビルが無かったので、湖西線や米原方面行きの列車が発着する2番ホームからは、京都タワーが見えていた。その目の前に、北陸方面への特急「雷鳥」が入線してきた。
山科は隣の駅なので、特急や急行を除けば、何が来ても乗れば良かった。そこへ、153系の「新快速」がやって来た。
湖西線経由の近江今津行きだった。白い車体に青い帯が入っていたことから「ブルーライナー」と呼ばれていたが、元々は東京と大阪や、大阪と山陽方面を結ぶ急行用の車両だったものを、新幹線の開業・延伸により転用したものだ。
当時の新快速は、今より停車駅が少なかったので、最高時速は劣るのに、現在と所要時間はほとんど変わってない。
山科で用事を済ませた後、今度は反対側の下りホームへ。上り米原行きが入線してきたが、当時はまだグリーン車を連結していた。
関東方面では今でもグリーン車が1編成に2両連結されている路線がいくつもあるが、当時の関西では東海道・山陽線にしかなく、しかも1編成に1両だけで、さらには利用率の低迷や不正利用(グリーン料金を支払わずに乗る)が目立ったことなどから、1980年に廃止になった。
当時に比べて、通勤時間帯に混雑する区間が広がった今、グリーン車の需要が関西でも見込めるようになっていると思われるのだが、今のところ、JR西日本からそのような話は聞こえてこない。
しばらくして、貨物列車がやって来たが、先頭に立つのは、かつてブルートレインを牽引していたEF60・500番台だった。
ヘッドマーク取付台座が残っているのが名残りだが、延々と連なる2軸貨車(=高速貨物と呼ばれていたコンテナ車と区別するため、一般貨物と呼ばれていた)を引っ張る光景は、どこか哀れさを感じさせた。
再び京都駅に戻ると、急行荷物列車を牽引するEF58が1番ホームに停車していた。
写真の150号機は、国鉄時代末期の1986年に一旦は廃車となったが、1987年のJR化に合わせるように動態保存機として復活。車体も青色から茶色に変わった。
実質的に最後のEF58として長く生きながらえたが、2011年10月31日に廃車になった。ただ、2016年4月29日にオープンの京都鉄道博物館で、再び私たちの目の前に姿を現すことになった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。