京都市電が1978(昭和53)年の秋に全廃になって以降、自宅から最も近い所を走る鉄道は京福電鉄→叡山電鉄に変わった。
その叡山電鉄も、1980年代半ばの頃は、乗客が右肩下がりで減っている時期でもあった。赤字が話題になっており、地元の人間として、どうなることかやきもきしていたものだが、1989(平成元)年10月に、京阪電鉄が三条から出町柳まで延伸開業して、叡山電鉄と直結することになった。そこで、情勢は一気に急転して、乗客が倍以上に増えたのだから、交通機関にとって利便性というものがいかに大事なものかが分かる。
そんな叡山電鉄も、1980年代は、まだ古い昔ながらの車両が数多く走っていた。昭和初期に製造されたデナ21形が健在で、当時の最大勢力を誇っていた。
出町柳駅(京都市左京区)を発車した電車は、しばらくは平坦な市街地を走り抜ける。
交通量の多かった東大路通との交差点がある元田中では、まだ市電が走っていた当時は平面交差を見ることができた。
宝ケ池で八瀬へ向かう路線と分岐した後、鞍馬へ向かう路線は、次第に起伏が多くなってくる。
当時の岩倉は、まだ田んぼが広がっている、のどかな風景の場所だった。
岩倉駅から先は、当時は単線だったが、太平洋戦争中の金属供出が行われる前は市原駅まで複線だったため、線路の敷地は複線の広さのままだった。
市原駅を出発すると、次第に山岳路線の色合いが濃くなっていく。とはいえ、当時はまだ「もみじのトンネル」は存在せず、今ほど観光路線という感じはなかった。
叡山電鉄には、鉄道としては厳しい50パーミルの勾配が何カ所かある。そんな厳しい坂を上り切ったところに、二ノ瀬駅がある。
二ノ瀬駅はカーブしているホームが特徴で、ほぼ全列車がここで交換(すれ違い)を行う。
この当時は、叡山電鉄に冷房車はほぼ無かったので、暑い時期は前も横も窓が全開になっているのが常態化していた。
叡山電鉄では、1両編成の単行か、2両編成の列車しか存在してなかったが、二ノ瀬駅では(有り得ないことだが)4両編成以上の長さでも交換可能な感じに見えた。
そう思って、他の駅も見てみると、どこの駅も4両編成ぐらいには対応が可能な感じになっているではないか。その昔、叡山電鉄線には出町柳駅から三条京阪までの延伸計画があり、そこでは京阪電鉄との直通が構想されていたといい、もしかすると大阪から乗り入れた列車を想定して、そういう設計になっていたのかもしれない…などと、妄想が広がるのだった。(つづく)
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。