1984(昭和59)年2月の日曜日、始発の地下鉄に乗って京都駅へ行き、東海道線の下り普通電車に乗って山崎駅へ向かった。
山崎駅からは徒歩で20分以上かけて、この日の撮影ポイントへ。
以前よりは数が減ったとはいえ、まだまだブルートレインなどの夜行列車は多く走っており、次々と姿を見せていた。
寝台特急「彗星」は、24系25型のブルートレインと並び583系もまだ活躍していた。
寝台特急をけん引する仕事は無くなってきていたが、寝台急行「きたぐに」の先頭では、米原機関区のEF58がばりばりに活躍していた。この日は、側窓が7個ある変形機で人気の36号機だった。
自分の場合、米原機関区に所属していたEF58の中では、なぜかこの36号機と遭遇することが多かった。
北陸方面へ直通する列車の先頭には、決まってEF81の姿が見られたが、引っ張られる方はブルートレインであったり、コンテナ車で編成された高速貨物だったり、2軸貨車を連ねた一般貨物だったりもした。
コンテナ車で編成された高速貨物の先頭には、様々な機関車が使われていたが、中でもEF66は貫禄があって「らしく」見えたものだった。まさか、その後、40年が経った今に至るまで活躍を続けることになろうとは、当時は予想もしなかった。
2軸貨車で編成された一般貨物の先頭で、一番多く見られたのがEF65の一般型だった。少し前までは、EF60やEH10も多く見られたのだが、それらは次々と姿を消していた。
急行荷物列車の先頭では、EF58が最後の活躍を見せていた。既に大窓機は、ほぼ姿を消していたが、宮原区を中心とした原型小窓機が、まだ数多く見られた。
ボンネット型の485系のヘッドマークは、文字のものから絵入りに変わっていた。この頃は、まだ特急と言えば、食堂車やグリーン車を組み込んだ12両編成以上の長さが当たり前だった。中でも、関西と北陸方面を結ぶ特急「雷鳥」は食堂車に加えてグリーン車を2両も組み込んでいた。当時は、北陸自動車道が全通しておらず、まだ列車を利用する人の方が比較的多かった時代ではあった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。