自分が鉄道写真を撮り始めた頃、国鉄の線路上からは蒸気機関車=SLは既に姿を消していた。
SLブームは過ぎ去っていたが、カメラを手にした少年たちの多くは、今度は特急列車やブルートレイン=寝台特急を対象として各地の駅のホームをにぎわせていたものだった。当時、写真を撮るということは、フィルム代+現像・プリント代が必要であり、1枚の写真に掛かるコストは、今とは比べものにならないほど高かった。もちろん、カメラも必要だし、露出が自動というものも少なかったので、多くの場合、シャッタースピードや絞りを自分で設定せねばならず、ピントも手動なので、それなりに技術も必要とされた。
そんな中で、自分は古い車両が現役で走っていることに興味を持つようになり、いつしか旧型国電の姿を追い掛けるようにもなった。しかし、時既に遅し、中学、高校と進学している間に、全国各地で走っていた旧型国電は、あっという間に姿を消していった。
1983(昭和58)年8月、当時の国鉄の中では、最も多くの旧型国電が活躍していた飯田線でも、最後の時を迎えることとなった。それまで何度か足を運んだが、もっぱら「乗り鉄」がメインで、撮影はあまり出来ていなかったが、それでも最後のお別れ列車に乗ることにしたのだった。(その1のレポートはこちら←クリックすると記事に飛びます)

「さよならゲタ電」と銘打たれたお別れ列車は、8月の6・7日と、同じ8月の20・21日の2回に渡って運行されることになったが、自分はそのうちの最終日、8月21日に乗車することにした。そして8月20日の夕方、中部天竜駅に降り立った。

駅の隣にある中部天竜機関区には、この日、伊那松島から中部天竜行きとして運行された「さよならゲタ電」4両編成が構内に留置されていた。
当時は、地方では国鉄職員の方に断りさえ入れれば、構内に入って撮影が可能なことがほとんどで、この時も特に問題なく、構内に入っての撮影を許可された。今では考えられないことだが…。

伊那松島方の先頭車は、「合いの子」として知られるクモハ53008だった。ノーシル・ノーヘッダーのつるんとした車体が特徴だが、張り上げ屋根には雨樋が付けられており、原型のままだった同じく「合いの子」のクモハ53007とは見かけが違っていた。

反対側は、クハ47009だった。昔から外観がほとんど変わってない、これぞ戦前の国電という風情だった。

駅前の旅館で1泊して迎えた翌日は、朝から快晴だった。

昨日に撮影した時には無かった、小さな日の丸が2つ、ヘッドマークの上に飾られていた。
当時は各地で同様のお別れ列車が運行されていたが、指定席がある訳でもなく、ごく普通に運行されていた。この飯田線の「さよならゲタ電」も、徹夜で並ぶということもなく、当日、発車時刻まで特に混乱もなかったし、ぎゅうぎゅう詰めになることもなく、普通に乗車することが出来た。

憧れの車両の一つだった「合いの子」のクモハ53008だったが、当然、人気もそちらに集中していて座れそうになかったので、この日は、最も人気が無いであろう中間車のクモハ54110に乗り込んだ。

途中駅でも駅員のいる有人駅では、「さよならゲタ電」の運行を祝う飾り付けがされている所が多かった。

当時の飯田線は、まだタブレットが使われていた。が、その後、間もなく姿を消してしまったようだ。

終着の伊那松島駅に到着後、隣の伊那松島機関区へ行くと、ここでも構内に入っての撮影が許可された。
ここで4両編成のお別れ列車が、2両ずつに分けられたのだが…今では有り得ないだろうが、立ち入った自分たちがカメラを構えているすぐ目の前で、その入れ換え作業が行われたのだった。

クハ47が2両ならぶその間に、置き換えのため新製されて配属されたばかりの青い119系が挟まった。
中間から顔を出した方のクハ47には、集まった鉄道ファンへのサービスなのか、わざわざ8月6・7日に運行された際に使われた「さよならゲタ電」のヘッドマークが飾られたのだった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。