1985(昭和60)年と言えば、阪神タイガースの掛布・バース・岡田のバックスクリーン3連発のあった年であり、25年ぶりの優勝を果たしたことで、関西人の自分には忘れもしない年だった。
当時、全国を走っている鉄道はJRではなく国鉄の時代で、民営化が議論されている頃だった。税金を投入して赤字を出していることで、何かと国鉄が批判されていたのだが、実は民営化直前の国鉄は劇的に経営が改善していて、旅客部門では1984(昭和59)年から黒字になっていたことは意外と知られていない事実ではある。
そんな年の春、桜が満開になろうとしていた阪和線の山中渓駅を訪れた。

当時の阪和線は、EF15やEF58、ED60といった電気機関車が客車や貨物列車をけん引して活躍していた。
東海道線を走っているのと全く同じスカイブルー色の103系が、阪和線でも活躍していたが、東海道の7両編成とは異なり、こちらは6両編成だった。
ブルーライナー色の113系も走っていたが、既に阪和線の「新快速」は姿を消していた。また、113系も先頭車のシールドビーム化が進んでいた。

とはいえ、オリジナルのヘッドライトを装備した113系も、まだまだ走っていた。

関西線を走っている朱色の帯の113系も、たまに姿を見せていたが、天王寺駅では関西線の電車だと勘違いしての誤乗トラブルもあったらしい。
特急「くろしお」は振り子式の381系の独壇場だったが、この年の4月から北陸方面で余剰となっていた485系を転用しての運用も始まった。

その485系は、4両編成が基本で、中には4両編成同士を連結した8両編成もあった。この日は、まだヘッドマークが間に合ってないらしく、白地のまま、下部に赤字で手書きの「特急」と書いた紙を貼り付けている状態の車両も見かけられた。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。