晩秋を迎えた1982(昭和57)年11月の日曜日、その日は朝から雨が降ったり止んだりという天気だった。
いつものように東海道線山崎駅を降り立ち、傘を差しながら高槻寄りの撮影ポイントまで徒歩で移動する。
サントリーカーブ前で、上りの寝台特急「日本海2号」が通過していった。
寝台急行「銀河」のけん引機が、EF58から真新しいEF65PFに変わった。しかし、客車の方は、まだ古い20系のままだったので、何だか変な組み合わせではあった。
急行「きたぐに」は12系客車とかなり古い10系寝台車の組み合わせだったが、A寝台車であるオロネ10が組み込まれていた。ただ、グリーン車の連結が無くなっていた。
寝台特急「明星」の最後部には、まだ新しかったカニ24-100が組み込まれていた。
見飽きた存在だった特急「雷鳥」は、まだボンネット型が先頭車である率が高かった。
こちらも見飽きた存在だった湘南色の113系。初期型と新しい型が入り混じって活躍していたが、初期型の中にはまだ非冷房車もあった。
新快速は117系の独壇場になっており、少し前まで残っていた「ブルーライナー」153系の姿は、もう見られなくなっていた。
特急「はまかぜ」は、キハ82系からキハ181系に置き換えられたばかりだった。
特急「雷鳥」には乗客に不評だった583系も走っていたが、そうは言っても大多数はボンネット型の485系だった。しかし、どちらも食堂車が組み込まれており、12両の堂々とした「国鉄らしい」特急ではあった。
この当時、貨物列車の先頭に立つ電気機関車は、バラエティに富んでいた。EF60は姿を消しつつあったが、EF65は一般型に加えて500番台(F型)、1000番台(PF型)もあり、他にはEF66も見られた。
北陸線経由の貨物列車は、EF81の独壇場だった。
反対側の撮影ポイントに移ってすぐ、上り寝台特急「日本海4号」がやって来た。
方向別の複々線区間であり、駅間距離の長い高槻-山崎間では、全力で走っている列車が追い抜いている姿がよく見られた。
キハ28・58系の急行列車も、当時は一日に何本も姿を見ることが出来たが、この区間ではディーゼルエンジン全開で走っている姿が見られたものだった。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。