1985年2月25日(月)~3月3日(日) 京都駅ほか

1985(昭和60)年2月末、横浜にある従姉妹の家へ出掛けた。目的は東京の大学を受験するにあたり、その滞在のためだった。
 新幹線に乗れば、3時間で着くのだが、せっかくの機会なので、あえて夜行の寝台急行「銀河」を使って行くことにした。

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少し早めに京都駅に行くと、DD51-775号機を先頭に1番ホームへ上り東京行きの寝台特急「出雲」が入線してきた。
 その後、ホームに銀色のステンレス製カートを押しながら駅弁売りの人が来たので、夜食代わりに京都駅の定番「萩乃家」の幕の内弁当とお茶を購入した。

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その間に「出雲」は出発していき、続いてEF62がけん引する荷物列車がやって来た。
 少し前までEF58が主役だった荷物列車も、この頃にはEF62に変わっていた。が、EF62は蒸気暖房=SGを搭載していなかったので、EF58(注*一部でEF61もけん引していたことがあった)の時代に、冬場には決まって見られた白い蒸気を見ることが出来なくなっていた。
 しかし、その荷物列車も1986(昭和61)年10月31日をもって全廃になり、EF62の活躍した期間は僅か2年半ほどの間だけだった。

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続いて、夜行の急行「立山」がやって来た。この頃には583系が使われていた。

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3段式の電車寝台を示す2つの★マークが付いているのだが、この夜行急行「立山」では寝台列車ではなく、全て座席での使用だった。

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絵入りマークでもなく、愛称名でもなく、表示窓には赤い急行の文字が見えるだけだった。

ようやく東京行きの上り寝台急行「銀河」がやって来たので、乗客として乗り込み、一路、東京へ。
 しかし、乗り込んでからの写真が一切ないのは、受験で上京するという、いつもとは違う旅路だったからだろうか。

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西武に乗って向かった受験会場で、入試の1次試験(学力考査)を受け、その合格発表が2月28日にあった。事前の模擬試験等では、合格率30%未満という評価だったので、受かる筈は無いと思っていた。ところが、結果は予想外にも「合格」というものだった。すぐに近くの公衆電話から家にいる母へ「合格した」と報告したのだが、信じてもらえず、何度も繰り返し「ホンマなんや」と言って長電話しているうち、後ろに長い列が出来てしまっていることに気付き、慌てて電話を切った。

合格は喜びではあったが、翌3月1日に2次試験(小論文と面接)があり、同じ日にある卒業式に出席が出来なくなってしまったので、複雑な気分だった。
 帰りに池袋や新宿に立ち寄ってカメラ店に立ち寄ったり、ゲームセンターなどで遊んでから、横浜の従姉妹の家に戻ったのだが、すぐに体調に異変を感じる。なんと、38℃を超える高熱が出始めたのだった。

すると叔母さんが「あら~うつっちゃったのね」と一言。なんと、自分が従姉妹の家に滞在する前に、家族間で一巡するかの如く風邪をひいていたというのだ。
 近くの医院に連れて行かれて、診察を受けて薬を貰うが、すぐに治る訳でもない。翌日の2次試験は38℃台の熱がありながらの受験となってしまい、小論文の試験を終えたまでは良かったが、受験番号が後ろの方だったためか、面接で4時間以上も待たされ、薬も完全に切れて朦朧とした状態になってしまっていた。帰る頃には、すっかり日が暮れていたのをはっきりと覚えている。

さらに翌日の3月2日、2次試験の合格発表があったが、そこに自分の受験番号は無かった。

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その日の夜、再び寝台急行「銀河」に乗って京都に帰る。

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この時に乗ったのは、最後尾のナハネフ22だった。

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ナハネフ22の車端部にある車掌室は半室構造になっており、残りの半分は乗客が自由に立ち入れる「展望台」のようになっていた。最後尾だったので、そこから見える景色は、明るい街中でもなければ「漆黒の闇」だった。
 元々、人が異様に多くて、ごみごみとした東京に行くのはイヤだったので、これで良かったのだと思う反面、(事前の予想では受かる筈のない)学力試験に通ったのに…という悔しさもあった。そんな失意で眠れぬ夜、この展望室で過ぎ去っていく景色をぼーっと見ながら、いわば、自分の人生の岐路となったひとときを過ごしたのだった。

京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやん”が、1978(昭和53)年から現在に至るまで、京都を中心に日本全国で撮影した鉄道写真を紹介します。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。