小学4年生の時から日本全国を一人旅していた自分だが、北海道へは、大学生になってから初めて訪れた。
案の定、広大な北海道の魅力にハマってしまい、大学3回生~4回生の時には、アルバイトで稼いだお金が貯まる度に出掛けていたため、年に3~4回も訪れていた。
社会人になってからも、しばらくは北海道へ何度か出掛けた。その全てが鉄道による旅だったが、今となっては夜行列車も全て消えてしまい、周遊券も無くなったので、のんびりと時間を掛けるのが「旅」だと思っている自分にとっては、随分と味気ない世の中になってしまった気がする。
1992(平成4)年の初夏、久しぶりに北海道を訪れた。
梅雨のない北海道は、6月末でもカラッとした良い天気だった。この時は、珍しくレンタカーを借りて函館界隈を巡ることにしていたが、レンタカーの営業所近くには、有名な「函館朝市」があった。
函館市内には、既に京都市内では随分前に姿を消してしまっていた路面電車が、まだまだ現役で活躍していた。
日の傾いた頃、津軽海峡線の札苅駅に立ち寄った。単線の路線ながら、北海道と本州を結ぶ長~い貨物列車との行き違いがあるため、長い線路に対して短いホームと1両編成の列車が対照的に見えた。
国鉄がJRに変わってから車体の塗り替えが進み、古豪のキハ22もJR北海道カラーになっていた。
翌日、函館駅を訪れると、津軽海峡線専用の51系客車列車がホームを賑わせていた。
先頭に立つ海峡線専用のED79には、誇らしげに「青函」の区名標が差し込まれていた。
51系客車には、昔ながらの行き先表示板が使われていた。
一番端の車両のみ、津軽・竜飛という2つある海底駅で乗り降りする専用の車両になっていた。当時は、海底駅の見学ツアーがあったためだが、その後、利用者が減って廃止になり、2つの海底駅は本来の用途である「非常用」の存在になった。
客車列車の醍醐味の一つに、機関車の交換作業があった。今では、客車の列車そのものが殆ど無くなってしまったから、こうした連結作業に伴う専門的技術も、その継承を受ける人の数は物理的に大幅に減ってしまっていることだろう。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。