自分がまだ小学生だった頃、月曜日に学校に行くのが憂鬱だと感じる時が度々あった。
当時は週休2日制ではなかったので、日曜日だけが休みだった。休み明けの月曜日になると、級友たちが「昨日、お父さんとキャッチボールした」だの「遊園地に連れて行ってもらった」という話をしているのだが、自分はその話の輪に入れなかった。なぜなら、父と遊んでもらったことが殆ど無かったからだ。
教師をしていた父は日曜日にも仕事をしていることが多く、年に数回しか遊んでもらえなかったため、月曜日に学校に行くと、いつも耳を塞ぎたい気分だったのだ。
子どもの時のそういう気持ちって、とかく大人になると忘れがちだが、きっと今だって、同じ環境にある子どもたちは、同じように思っていることだろう。
1980(昭和55)年の2月11日「建国記念の日」は、日曜日に続いて連休になる祝日だった。その日、珍しく父が神戸市の須磨まで海釣りに連れて行ってくれた。
父の教え子にあたる学生さんたちと一緒に、阪急電鉄から神戸高速鉄道、山陽電鉄と当時は珍しかった相互乗り入れ区間を通り、阪急電車としては終点になる須磨浦公園に降り立った。
釣具店でエサを買い、浜辺でカレイ釣りをしたのだが、近所の川や池で釣りをしたことはあったものの、海釣りの経験は初めてのことだった。まだ子どもだった自分には長い竿を操るのに難儀したし、寄せては返す波のある状況では、アタリが全くとれなかった。
一方、父や教え子の学生さんたちは次々とカレイを釣り上げていくので、釣れても外道の魚ばかりの自分は、次第に詰まらなくなり、近くを通る国鉄山陽線の列車ばかりを見ていた。

遂には我慢が出来なくなり、カメラを持っていたので写真を撮りに行く。既に上りのブルートレインは全て通過した後だったが、ちょうど新快速で最後の活躍をしていた153・165系が何本も目の前を通過していった。
新型の新快速用117系が次々と配備されているのに従って、春から転用されることが決まっており、白とブルーの新快速カラーから、緑とオレンジの湘南カラーに塗り替えが進んでいて、混色編成が目立った。
元々は関西地区を発着する急行列車のヘッドマークに使われていた形状で、黄色枠の中央にある白地にブルーの文字で書かれた新快速のヘッドマークも、この頃にはかなりくたびれている個体があり、文字が読み辛いものもあった。

デビューしたばかりの117系も活躍を始めていた。既に新快速への運用から基本的に外れてしまったが、デビューから37年が経った今も、まだ姿を見ることが出来る。

EF58がけん引する急行荷物列車も、この頃にはまだ沢山走っていた。

大阪と但馬、山陰方面を姫路経由で結ぶ特急「はまかぜ」も、この頃はまだキハ80系の独壇場だった。

2軸貨車を主体とした一般貨物列車の先頭に立つのは、EF60とEF65一般型ばかりだったので、いつもはシャッターを切る気にもならなかったのだが、車掌車ヨ5000を2両だけ繋いだ回送列車らしきEF65がやって来たので、珍しく撮影をしていたようだ。
その後、釣りに戻ったが、結局、自分には、とても持ち帰る気にもならないような小さなカレイしか釣れなかったので、かなりがっかりしたのを覚えている。
30歳を迎えようという頃から釣りも趣味の一つになったが、子どもの場合、釣れないとすぐに飽きてしまうことを大人になって実感した。あの時、もし父が熱心に指導してくれて、持ち帰れるようなカレイが釣れていたとしたら、自分の人生も少しは変わったかもしれない。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。