1987(昭和62)年の3月31日、国鉄が最後の日を迎えた。
その日は全国各地で「国鉄」を惜しむお別れイベントが開かれていた。

夕方、京都駅に行くと、案内看板などが次々と「JR」の文字が入ったものに取り替えする作業が進められていた。

この日は新大阪駅で行われるイベントに行くため、京都駅で主に東海道線下り列車が発着する4・5番ホームへ降りると、既にホームに掲げられた大きな路線図の表示はJR仕様になっていた。

新大阪駅では、国鉄の大阪鉄道管理局が主催するお別れの式典として、大阪から九州へ向かう寝台特急「あかつき」の発車式が行われることになっていた。
京都駅から新快速電車に乗って、新大阪駅に着くと、式典が行われるホームの上は集まった鉄道ファンと報道陣でいっぱいだった。

ブラスバンドの演奏が行われる中で、乗客の代表として選ばれた夫婦?と、運転士、車掌さんに花束の贈呈が行われた。

同じ夜、東京駅や上野駅では、JRとして分割民営化される、それぞれの本拠地へ向けて「旅立ちJR号」の発車式が行われていた。
東京駅からは「旅立ちJR東海号」が名古屋へ、「旅立ちJR西日本号」が大阪へ、「旅立ちJR四国号」が宇野駅で宇高連絡船を経由して高松へ、「旅立ちJR九州号」が博多へ向けて発車し、上野駅からは「旅立ちJR東日本号」が仙台へ、「旅立ちJR北海道号」が青森で青函連絡船を経由して札幌へ、それぞれ出発して行った。
新大阪駅での撮影を終えて京都に戻り、一旦帰宅したが、翌日も朝早くから京都駅に行く予定だったので、それほどゆっくりは出来なかった。

翌朝、京都駅の6・7番ホームに降り立ってみると、JR化を祝う祝賀列車の出発を知らせる大きな看板が掲げられていた。
この時、まだ瀬戸大橋は完成してなかったので、瀬戸大橋を一望することが出来る鷲羽山に行ったり、下津井港から観光船に乗って、完成間近の瀬戸大橋を眺める…という旅だったのだろう。
確かに、この当時、完成間近の瀬戸大橋を見に来る観光客は多かった。何せ、そのすぐたもとに母方の実家があって、その光景を実際に目にしていたのだから。

6・7番ホームの東端は混んでいたので、隣の京都駅の4・5番ホームに移動して待っていると、朝日が差し込む中、前夜に東京を出発した「旅立ちJR西日本号」がやって来た。

最後尾に連結されていた展望車マイテ49のデッキには、鉄道ファンには馴染みの深い吉村光夫アナウンサーが立っておられた。どうやら番組の中継が入っていたらしかった。

京都駅には数分は停車していただろうか。そんな短い間にホームの端から端を走り回って、今度は先頭側へ。

しばらくして、汽笛が鳴り、終着駅の大阪へ向けて発車して行った。最後尾の展望車デッキには、テレビカメラマンが乗っていた。
今、こうして振り返ってみると、カラーフィルムを詰めたカメラと、モノクロフィルムを詰めたカメラの2台をぶら下げ、しかも片方には買ったばかりの300/2.8+テレコンバーターという巨大な望遠レンズを付けていたのに、よくもまあ隣のホームから移動したり、さらにはホームの端から端まで走ったりしていたものだと思う。その若さゆえのフットワークが、今となっては懐かしいし、羨ましい。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。