東海道線の京都-大阪間の中で、とりわけ鉄道ファンの姿が多く見られるのは、今も昔も山崎-高槻間だと思う。現在は、その駅間に新たに島本駅が出来たので、言い方としては島本-山崎間に変わってしまった。
この区間には、有名なサントリー前のカーブがあるが、そこに限らず、あちこちに撮影ポイントがあった。今ではマンションや住宅が立ち並び、見通しの悪い所が増えてしまったが、1980年代の頃は、まだまだ周辺に田畑が多く、高い建物も少なかったので、見晴らしも良かった。
天王山系をバックに、複々線の内側を普通や快速電車、外側を新快速や特急が行き交うが、ちょうどこの区間で新快速が快速や普通を追い抜くことが多く、それは今も昔も変わらない。
国鉄がJRに変わる直前の頃、心なしか撮影の頻度が上がったのは、国営が民営に変わることで、姿を消してしまう列車とかがあるのではないか、という漠然とした不安があったからだろう。
それは国鉄職員の方々にもあったようで、どことなく将来が不安だというような話は、同級生の父親が当時の国鉄に勤務していたこともあり、何度となく聞いたのを覚えている。
ところで、当時はまだコンビニも殆ど無かった時代だった。山崎と高槻は駅間距離がかなり長く、駅から撮影地までは、かなり歩かねばならなかった上に、周辺には店も殆ど無かった。そんな中で、この撮影ポイントの近くには、小さな駄菓子屋兼お好み焼き屋さんがあり、よく利用した。
始発の地下鉄に乗り込み、山崎に着くのはいつも6時半頃だったが、その後は早くてお昼まで、(待ち時間の話し相手が多くなる)同行者が複数の時などは夕方まで粘って撮影していたこともあった。
何度と足を運んでも、ダイヤ改正でも無ければ、走って来る列車に、それほど大きな変化は無い。逆に言えば、いつ行っても同じような光景を撮影しているようなものだったが、その当時に、自分の父親より年上だったであろう、鉄道写真を撮っていた人から「どんなモノを撮っても、時間が経てば貴重な宝物になる。だから、その時は見慣れた光景だし無駄だと思ったとしても、シャッターは切っておいた方が良い」という話を聞かされたことがあった。
あの時から30年以上が経った今、同じことを若い人たちに言おうとしている自分に気が付いたりもする。
そして、あの駄菓子屋兼お好み焼き屋さんも、いつの間にか無くなっていた。
注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。