1988年3月29日(火) 下津井電鉄

自分の母方の実家が、かつて岡山県倉敷市にあった。が、倉敷と言っても有名な美観地区ではなく、海に近い児島という地域にあった。
 近所には親戚が多く住んでいたが、昭和50年台(1975年~)に入って間もなく、その地域を横切るかのように本州と四国を結ぶ高速道路と国鉄路線の建設が決まり、その動きが目に見えて起こった。

あちこちに標識が立ったかと思うと、工事用の道路が次々と作られ、ダンプが何台も行き交うようになった。塩田が広がる静かな環境だった児島地区も、一気に騒々しくなってしまっていた。

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その児島から、本州と四国を結ぶ連絡船が出ていた下津井までを結ぶ、下津井電鉄というローカル私鉄が走っていた。線路幅が762mmしかない「ナローゲージ」で、規格が低く、建設が容易で安価だったこともあり、戦前には「軽便鉄道」として全国各地で建設された。
 しかし、戦後になって自動車が普及するに従って、トロッコ鉄道並みのノロノロ運転しか出来ない軽便鉄道は競争力を失って次々と廃止されていった。そして、平成の世の中になって、営業運転しているナローゲージの鉄道は片手で数えられるほどにまで減っていたが、その数少ないうちの一つが下津井電鉄だった。

その下津井電鉄は、母方の実家のすぐ裏を走っており、帰省する度に撮影しに行っていた。線路のバラストは土に埋もれてしまい、地元住民の歩行路や子どもの遊び場になっていた。

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おおよそ、1時間に1~2本しか走ってなかったが、下津井電鉄が生き残れた理由は平行して走る道路がほぼ無かったからで、地元住民にとっては貴重な交通機関だった。

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ただ、「撮り鉄」の立場から見ると、なかなか目的の電車がやって来ない、という面はあった。しかし、見た目にもグニャグニャに曲がっていたレールの上を、左右に揺れながら平気で走る電車の姿は、どこか愛嬌も感じられた。

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昼間は、もっぱら1両編成の「単行」で運行されていた。単行専門だったモハ1001は,この頃に「赤いクレパス号」という名の「落書き電車」になっていて、車体はまさに落書きだらけだった。最近、車庫に侵入して、無断で地下鉄など電車へのサイケデリックな落書きが行われる事件が頻発しているが、彼らがあの時代にいたとしたら、この「赤いクレパス号」にも落書きしたのだろうか。

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そのモハ1001も、この頃でも相当に老朽化が進んでいて、1988(昭和63)年4月10日の瀬戸大橋開業後には、殆ど稼働することが無くなった。もちろん、瀬戸大橋が出来たことで観光客が激増して、もはや単行では運べなくなるほど乗客が増えたこともある。

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その観光客の増加を見て、バブルの波にものって27年ぶりに新車を投入した下津井電鉄だったが、肝心の「瀬戸大橋効果」が1年も経たずに終わり、しかも工事用の道路が一般開放されたことで、逆に以前よりも地元住民の利用が減ってしまったのは皮肉だった。結局、新車投入の借金と、営業収入の低下で赤字が激増し、瀬戸大橋の開業から3年経たぬうちに全線廃止に追い込まれてしまった。

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